クリエイタ―志望必読の書「アート・スピリット」を読む。

前回2ちゃんで叩かれたので、こういう本を手に取ったんですよ。「アート・スピリット」っていう。ロバートヘンライっていう訊いたこともない画家のおっさんが、若い芸術家志望のために、「おまえらがんばれよ」「おまえら天才なんだから」「傑作書けよ。お前らがすでに傑作なんだから」「お前ら最高!」「お前ら好き!」ってものすごい暑苦しい激励の言葉を、呪いみたいにかけてくる、なんかそういう本らしいんですけどね。ボロボロになった心を癒そうと手にとっては見たものの、ちょっとその時点でもうきついなーって思ったんですけどね。正直。ボクみたいな生粋のネガティブ人間には、こういうやたらテンションの高い松岡修造みたいなポジティブさってちょっと抵抗があるというか、逆に沈んできますからね。気持ちが。だから読む前は、「大丈夫かなーこれ・・・」みたいな感じで読み始めたんですよ。 

 

アート・スピリット

アート・スピリット

 

  

ところが読んでみたら、びっくり。これはかなり危険な本ですね。若い時にこれ読んで、変に感化されたら、間違いなく人生をハードに踏み外すこと間違いなしです。もう芸術家人生まっしぐらというか、これ読んだら、世間体なんてどこ吹く風、「俺は天才だ」って目が血走ること必死です。ここまで他者評価を無視した本はめったにありません。「自分を信じろ」ってものすごく連呼してますからね。

 まず、いきなり冒頭で、

 芸術を学ぶものは最初から巨匠であるべきだ。つまり、自分らしくあるという点で誰よりも抜きんでていなければならない。いま現在、自分らしさを保っていられれば、将来かならず巨匠になれる。

 こういうことを言いきってるわけですよ。危ないですよ。こんなこと言ったら。「じゃあボクも巨匠になりまーす」っていう痛い奴めっちゃ増えますよ。夢追い型フリーターへの道まっしぐらというか。ただでさえ増えてんのに、余計うじゃうじゃ増えてくるというか。なんてことしてくれてんだと。それにこれは「これを買えば、あなたは確実に成功者になれる」っていってくる悪質なマルチ商法と一緒じゃないですかね。こういう言葉って奮い立たせてはくれるけど、まったく本人にとっては逆効果というか、ボクのような自分探しフリーターにとっては、身の程知らずな方向に勘違いさせる言葉ですよ。これは。

 そんな冒頭でげんなりしたまま、読み進めていくと、ちょっと興味深い箇所が。

 拒絶を恐れるな。すぐれたものをもつ人間はみな拒絶を通過してきた。

 その通りだ!ってここで声を大にして言いましたよ。ぐっと涙が出そうになったぐらい。世間の拒絶ほどボクにとって恐ろしいものはありませんから、この言葉には最初、ものすごく勇気づけられたんです。ところが次の箇所でげんなりします。

 作品がすぐに「歓迎」されなくても気にしないことだ。作品がすぐれているほど、あるいは個性的なほど、世間には受け入れられないものである。ただし、このことは覚えておいてほしい。絵を書く目的は、展覧会に出すことだけではない。絵を書くのは自分自身のためであって審査員のためではない。私は何年も拒絶され続けた。

 ここはとてもいい言葉に聞こえるんですけど、ちょっと立ち止まって考えてみると怖いんですよ。クリエイタ―にとってちょっと耳の痛い箇所ですね。ボクも含め、ほとんどのアマチュアは、たぶん作品を他人に見せても、拒絶はされるけど、上の言葉のような拒絶はされないと思うんですよ。ほとんどが、「○○のパクリ」だとか「影響受けすぎ」とか「売りがない」とか「新しさ、オリジナリティがない」とかね。まぁそういうことを言われるわけです。つまり個性で拒絶されるんじゃなくて、無個性で拒絶される。個性で拒絶されるってのは、100人いれば一人、二人いるぐらいなんじゃないですかね。だからこの言葉はちょっとゾッとするというか、逆にへこみます。おいおい何をへこましてくれてんだと。それにじゃあ結局、オリジナリティって何よ?っていう疑問が続けて湧いてくるわけです。

 それに対するこの本の回答。

 独創性について。独創性について心配することはない。本人がいくら望んでいても、独創性を振り払うことはできない。独創性は人間につきまとい、誰かが考えるよりもずっとしつこくその人間の本性をーー善きにつけ悪きにつけ――さらけ出そうとする。

 これはボクも考えてたんですよ。ボクも長い間いろいろと他人に自作のなにかしらを見せたりするんですけど、そのとき言われるのがかならず「売り」がないとか、「オリジナリティ」が足りないとかなんですよ。そんでプロのつくったのを見てみると、あぁ、たしかに世に出ているものはオリジナリティあるなぁって思うことがあるんですよ(もちろんないのもありますが)でもだからといって「オリジナリティのあるものを作るぞ!!」って意気こんで作ったものがはたしてオリジナリティがあるってなるのか・・・。これは難しい問題ですよ。オリジナルってそんな意図的につくれるものか。それとももう気質みたいなもんで、本人から自然に滲み出てくるもんなのか・・・。どっちなんって。

 それに対するこのおっさんの回答が。

 あらゆる個人は、自分自身の個性について学び、最終的には自分の好みを知るべきである。みずからの快感を育て、その感覚をほかの人々に向けて最も直接的に表現できる手段を探求し、発見するべきである。それによって、大勢の人々が同じような快感を得られるように。

 独創的であろうなどと思わず、ただできるかぎり自分らしく、自由であればいい。そうすれば、おのずと独創性はあらわれるはずだ。独創性とは前もって用意できるものではない。


 まぁ、簡単に感謝すると、自分の好きなもんつくってればいいってことなんですかね。自分の好きなもん突き詰めてれば、なんか自然とオリジナリティになっていくんじゃないかって。でもここで、ちょっと問題なのが。その好きなもんが、村上春樹風であったり、松本人志風であったり、鳥山明風であったりした場合なんですよね。本人は好きでそれをつくってるんですど、他人から○○に似てるじゃんとか言われる。でも上の言葉に従うと、それでもいいってことになりますけど、でもそれじゃあ世に出られないような気が誰だってしますからね。もう先人が作り出した世界をなぞらえてもしょうがないじゃんって。自分なりのアレンジを加えられるなら、別ですけど。影響を受けた先人と自分と、なにか別の感覚を必死で探して、そこを育てるしかなくなるんですけど、難しいですねこの問題は。好きなんだから変えようがないし、ほんとどうすんのよって話ですよ・・・この本では、そういう疑問には触れられていません。それは自分で考えなさいってことなんでしょうか。

 

 ・賞と報酬とメダルについて
 
 ボクがこの本のなかで、最も気に入ったテーマはこれです。前述したとおり、このおっさんは「他者評価なんか気にするな」「きみが満足できればそれは間違ってない」ってアホみたいに言っているので、このテーマでは非常に高圧的な物言いで、芸術における賞や肩書きというものをクソミソに言っています。

 芸術において、賞やメダルがもたらす悪影響はとても大きいので、取りやめするべきである。走り幅飛びに公平な賞を与えることはできる。ジャンプの距離は測ることができる。
 だが、芸術作品の価値を測る方法はない。歴史を振り返ってみても、美術展の審査員はたいてい間違った判断をしてきた。ほんのわずかな例外をのぞいて、偉大な芸術家は、あらゆる国、あらゆる時代において拒否されてきた。それどころか彼らは展覧会の審査にも通らなかった。

 

 また、著名な批評家の解説に惑わされてもいけない。なぜなら評価は人それぞれで、見る人にとって異なるからだ。

 芸術家はたがいに競いあうべきものではないという事実を理解すべきである。

 

 「金が稼げないならなんのためにやっているのか」という問いかけは珍しくない。芸術家の活動から生まれる瞬間と、作品がたまたま売れる(または評価される)ことには、なんの関連性もない。

 

 この世において、偉大な芸術作品や偉大な科学的発明が、誕生した時点で十分な報酬をうけることはめったにない。せっかく世に送りだされても、たいていは冷淡にあしらわれるだけだ。栄誉や名声、それに十分な報酬は、作り手が大変な苦闘をのりこえたずっとあとになってくるものだといっておきたい。
 

 これはあらゆる創作の新人賞で落ちつづける、クリエイタ―にとっては淡い希望を与える言葉です。
 僕も普段、他人の小説にたいしてあれこれと偉そうに文句言ったりしますけど、結局は、好きか、嫌いかしかないですからね。

 この本たぶん、読む人によってぐっとくる箇所が違うと思うんですよ。だから気になったかたは、是非手にとってみてください。面白いのはあとがきに「当の書き手の名声が沈んで以降も本は輝きを増した」って最後に書いてあって、たぶん天国で本人は「えー」って叫んでますよ、無念すぎて。「俺の絵より、ノウハウ本のほうが残ってんのかよ」って。
 アートスピリットなかなか興味深い本でした。最後に個人的にグッときた、この言葉をおいて終わります。

 自分が本当は何が好きなのかを知るのは簡単ではない。
 このことについて、自分を騙しながら一生を送ってしまう人も大勢いる。
 たいていの人は、生きながら死んでいる・・・

 

アート・スピリット

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