特攻隊の「あんまり」な現実を語る。「不死身の特攻兵」(鴻上 尚史)読了

最近、出版される本の量のスピードについていけなくて目が眩む時がある。出版される本の物量に目が眩んで読みたい本も見つけられなくて困っているのだが、そういうときは大体「ベストセラーの本」を読むようにしてるんだけど、最近「不死身の特攻兵」という本がかなり話題になっているらしい。映画でも「特攻隊」についてはもはや語り尽くされた感もあるが、ためしに読んでみたら「不死身の特攻兵」はその中でもかなり異色の後味の悪い本だった。なんて言ったらいいかな。こういう空気感ってそこらじゅうに今もあるなと思って日本の負の部分を覗き込んだ気がして、読んだあと暗い気持ちになってドヨーンとしてしまう一冊だった。カフカの不条理劇みたいな本なのだ、これが。

 

 

  

 まーどういう話かというとね。特攻隊を主人公にした話なんです。佐々木さんてパイロットの人が主人公なんやけどね。で、この佐々木さんは、めちゃくちゃ腕がいいパイロットなわけや。だから特攻作戦を知ったとき「こんな作戦があっていいのかと」と唖然として上官に逆らうわけや。逆らうんやけど、ぜんぜん受け入れてもらえんわけ。
 それで、どうも佐々木さんは納得でけへんと。特攻作戦に。それで自分の腕に自信があったから「オレは自爆することなく爆弾を命中できる」って特攻に行って爆弾を命中させて帰ってくんねん。で、帰っていたら、ほら。見てください。成果出したじゃないっすか。もう死ななくてもいいですよね。て、再度聞いてみたわけや。上官に。もう死ななくてもいいですよね? そしたら上官が、ブチぎれるわけ。それでも死んで来~い。と。死んでくることが大切なんやで、とめっちゃ諭されんねん。佐々木さんはビックリすんねんその意味不明な考え方に。なんで成果上げてんのに死ななあかんねん。ところが、この理由が、また悲惨やねん。
 ナショナリズムが沸点を超えて合理性を無視した「命を供物する」作戦になってしまった。と思うやん。ぜんぜん違うねん。
 実は、佐々木さんが出撃したあと上官が「佐々木は、祖国のために命を散りましたー」って天皇陛下に恭しく報告してもうてたわけや。ところが佐々木さんが生きて帰ってきたら、うその報告をしたことなるやんか。だから、お前死んで来いと。なんやフタを開けてみたら、自分自身のメンツの為やねん。で、佐々木さんも、なんかい出撃しても、納得できへんから、やっぱり何回も帰ってくんねん。で、もう何回も行き過ぎて、だんだんグレードが下がってくんねん。弔い儀式も。最初は、「さけ魚」がふるまわれるんやけど、もう何回も行き過ぎて、最後の方は「バナナ」とか、そんなんになってくんねん。バナナて。
 で、今度こそ「殺される」と思ってビクビクしながら帰っていったら、ちょうどそのとき間一髪で終戦になって生き延びるわけや。ところが、佐々木さんの話は、この後の話が怖いねん。帰ってきたあと「お前危なかったなー」って言われねん。まわりの同僚から。佐々木さん。特攻のことかなと一瞬思いかけるんやけど、話を聞いたら、じつは佐々木さんが何度も帰ってくるんで、上官が切れて、佐々木さんを本当に殺そうとしてたんやって。佐々木さんが帰ってきたら「佐々木を撃て」って狙撃隊に命令してたらしいんや。なんか、もう意味不明で泣けてくる話やろ。
 で、もっと酷いのが「特攻隊」って元々大西さんて人の発想なんやけど、この人が言うには特攻隊は、もともと戦略性から発案した作戦ではなかったらしいんやな。実は日本の敗戦を感じた大西さんは「現場はもうこんな惨状ですよー」と天皇にアピールすることで天皇に不毛な戦争を終結させることを目的として発案した作戦だったらしい。なんかもうアクロバティックすぎるメッセージである。
 しかも、天皇は、その「意味」を反対に受け取り近衛から「戦争をやめましょう」と言われても一撃講和の可能性を信じて人民に取り返しのつかない被害を与える決断をしてもうたわけや。
 このように特攻隊はその存在が天皇の戦争責任まで及んでくるので今も「英霊か」「無駄死にか」と日本中を大きく二分する難しいテーマである。ちょっとここで特攻隊についての自分なりの所見を述べてみようと思う。特攻隊は「無駄死にか英霊か?」問題だ。「英霊」派の代表的な意見は、こう言う。特攻隊のおかげで米兵に「日本人は死を賭してでも向かってくる」というイメージを与え占領政策を緩和させ戦後の繁栄と平和に結果的に寄与した。という言い方だ。こういう言い方で特攻隊を正当化する。特攻隊を「英霊だった」と主張する人の意見だ。
 実を言うと、たしかに、そういう観点から見れば、特攻隊は無駄死にではなかった。とは思う。そういう意味では。でも、こういう意見って、ひとつ見落としてるところがあると思うんだよね。
 もしかりに特攻隊が日本の平和に寄与していても「日本人が日本人を爆撃機に突っ込ませる」そういう非道な作戦をとらなければ平和が成り立たないような状況を「全力で回避する」のが政治の役割でしょう。そういう道徳的判断を狂わせる状況を防止すべきのが政治家の役割なのだから、もし(日本人が日本人を自死に追い込む)そういう事実があるのであればその過ちを深く反省していくのが筋道だと思うんだが、なぜか感謝で終わっている人が多くないだろうか。
 28年間、生きてきて、いや、たいした人生は歩んでないけどさ。人としていちばん関わりたくないタイプは、自己犠牲を称賛する奴ですね。なぜなら自己犠牲を称賛する奴は、かならず他人にも自己犠牲を求めてくるからだ。特攻隊を称賛する人は、結局、自己犠牲を称賛してるわけだ。たしかに若者の行動は自己犠牲的で愛国的である。それに何の異論もない。ただ問題は、それを「強要」したとこにある。行きたくないのに若者に自爆死をさせる行為は、自己犠牲とは程遠い行為のはずなのに勝手に「自己犠牲だった」と脳内変換して「感謝する」ってどう考えても変だ。
 国民の自爆死を「英霊」と正当化しようとする人間が、靖国神社に参拝して「不戦の誓い」とか「平和の祈りだ」とか言っても、まったく説得力がない、と思う。なぜなら「特攻隊は英霊だった」とか「国に感謝され英霊となる」というこの青臭いフレーズが、まさに「国民を戦争に駆り立てた手段そのもの」だったからだ。だから不戦とは言いながらもこういうひとって戦争を肯定してるようにしか見えないんだよね。
 あらゆる戦争において、国民の犠牲は不可避だろう。でも、この不可能なものに挑戦するのが政治家の役割であるなら、もしそれが達成できずに過ちを犯したのであればその失敗を潔く反省して二度と繰り返さないと犠牲になった人への謝罪なしに本当の「弔い」は成立しないと思うんだよ。そういうことをこの本を読んでしみじみ思いました。