文学夜話第3回。「フラニーとズーイ」村上春樹訳。

 

 春樹がサリンジャーを訳したらしい。ネットでも話題になっている。しかしほかのブロガーと同様に、おい、大変だ。春樹がサリンジャーをまた訳したぞ。みんなも読め。こんなテンションで入っていけるようなブログではない。
 サリンジャーって誰だっけ、とまず思ったのである。そしてその名前に、遠く思いをめぐらせた。かすかな記憶をたどっていくと、あぁ、思い出した。サリンジャーってあいつだ。たしかライブ麦畑かいてたやつだ、ってのと、そういえばアレは読んでたな、ぐらいで。でも開始二ページぐらいで「まんどくせ」って投げちゃった、っていう思い出しかなくて。フラニーとゾーイも、そういやぁ、高校生ぐらいに読んでた、けどなんかキリストがどうのこうの言ってて途中でやめたな、という思い出しかなく、それ以来、「必死こいて読んだけど何かよくわからない作家」としてサリンジャーという名は記憶の奥底のライブラリーにしまいこんでいたのだが、ここへきて春樹の新訳がでたのである。

 フツーなら「ふ~ん」で終わっているところだが、読んでみたのである。なんでかというと、「村上春樹いじり」があんまドカンとこなかったので(いつものことだが)、版元の三五館さんが営業にかけあってくれて、大学の書店に「いじり」を置きたいから、ついでに新訳フラニーとズーイの紹介文も書いてくれ、という仕事をもらったからなのだ。フラニーとゾーイの評ではなく、村上春樹が訳したフラニーとズーイである。これは大仕事だ。なんたってライ麦もフラニーもほとんど途中でぶん投げてる。オレのサリンジャー観は「途中でぶん投げて忘れていた」これしかない。
 ・・・・こんなレベルで何が語れるだろうって・・・ところが今回のキッカケで春樹の「こんなに面白い話だったんだ!」とする特別エッセイ をこれを見て、驚いた。なんと春樹も(オレと同い年ぐらいに読んで)「キリストがどうとか、宗教くせぇなこれ」と思ったらしいのだ!「そうなんだよ、なんか宗教くせぇんだよこのこの小説って・・・」 春樹とはじめてシンクロしたような気分だった。
 そこで意を決してもう一回、この小説、「フラニーのズーイ」に挑戦してみようと思い、
 そんでどうせ読むなら旧訳の野崎版も合わせて、野崎版といったい何が違うのか、どっちが表現力で勝っているか、見定めてやろうと思ったのだ。

 そして、高校のとき挫折して以来・・・何年かぶりに読み返してみたんだけど・・・・・・・

 

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 


 まず、フラニーとズーイって小説・・・
 どんな小説か知ってる人はいるんだろうか。

 聞いたことはある・・・・。けど、内容は知らない。
 まぁ、そういう人が多いんじゃないかと思う。
 
 どんな小説か、って聞かれたら、ちょっと説明しずらい小説で。
 
 「フラニーっていう大学生の女の子がお兄ちゃんに元気付けられる」

 要約すると。たったこれだけ・・・なんだけど、
 この元気付けられるプロセスが超へビィというか・・・

 と同時に、高校のときはつまんないって思ったけど、この年になって読み返すと、
 ちょっと胸に迫ってくるものがあって、これもしかしたら、このブログの大テーマとする、いわゆるクリエイティブな仕事につきたいと思ってる(ボクみたいな)人に、
 非常に身につまされる話なんじゃないか・・・という・・・・。


 とにかくおおざっぱに言うと、このフラニーっていう大学生の(女優志望の)女の子が主人公なんだけど、突然家にこもっちゃうのだ。「もうあたし大学とか行かない!芝居もやめる!」つって。
 「どうしちゃったのよフラニーちゃん、それよりチキンスープでも食べなさい」とか母親から言われても、「うるせーそんなもんいるかー、どっか行けー!」みたいな感じで。

 なんでこんなことなったかというと、いわゆる思春期のはやり病とか、失恋とかそんなんじゃなく、「どいつもこいつもナルシーだ・・・」ということにフラニーはほとほと嫌気がさしたのである。
 とくに大学なんかナルシストの巣窟だ。どこを見ても自分アピールしたいやつら、己のセンスを誇示したいやつらでいっぱい。彼氏はつまんなそうな論文読んで読んでとか言ってくるし、芝居やってるやつらは「有名になりたい」とかばっかりだし、現代でいうと、twitterのフォロワー数自慢してくるやつとか、就活のためにボランティアするやつとか、youtubeに自作の唄あげてるやつとか、まぁそういうやつらに対し、全方位的に、どいつもこいつも「アイタタターだ」とフラニーは思うのである。

 ・・・いやぁ、どいつもこいつもイタいやつばっかりで、なんか大学行くのイヤんなってきたな・・・センスもないし、ほんと大学ってつまんないな。みんな死んじゃえばいいのに。と思うのである。
 
 しかしここがこの小説のミソなのだが、フラニーが何より憎悪してるのは、そんな自分の「いやぁそうは言うけど、あたしだって凡庸なことしたくないし・・・有名になりたい・・・他人からすごい褒められたいんだよね・・・」という自己愛であり、それにハッと気づいたフラニーは
 「あああああああああああ、なんか違う!! そんなのピュアじゃない! そういう有名になりたいとか、そういうのは違うよね! なんか本物の芸術家ってそんなんじゃないよね。絶対。なんかもっと、こう、森のなかのきこりみたいな感じでさ、粛々と己の仕事に向かって、他人の賞賛なんか求めずに、ひたすら作品に情熱をこめるのが真のアーティストって感じするよね、するよ」みたいな。
 「あああもうなんでこんなに有名になりたいとか、そんなこと思ってるんだろう・・。もう嫌だ・・・わたしのアーティスト像はそんなん違う。どうしようか。うん、もうなんかボヘミヤンみたいに、いろんなところ放浪して回ろうかな、いやそれただの自分探しじゃん。そこらへんにいるモラトリアム大学生まる出しだな。それはもっとイヤだな・・・。よし、こうなったらもう出家でもすることにする!(゚∀゚) ・・・」って思って、家に引きこもってしまうのである。

 そこで母親が見かねて、フラニーのお兄ちゃんであるズーイに、ちょっとあの子どうにかしてよ、って頼み込んで、ズーイも「仕方ねぇ妹のために行ってきてやるか」みたいにしぶしぶフラニーのとこ行くんだけど、
 ・・・ここでポイントなのはこの兄貴のズーイも、なんとフラニーと同じように、何かを「こじらせてる」のである。
 「どいつもこいつもセンスがねぇ」「画一的になりたくない」「オレはほかとは違う」 

 もうこんな煩悩でからめとられた、この二人、「こじらせ兄妹」なのだ。

 「いや、お前の気持ちはわかるよフラニー、オレも今俳優やってけど今やってるテレビと映画なんてスポンサーにコビ売ってるような、みんなクソドラマだぜ、ほんとに世の中ってのはバカだよな」みたいな。「俺はさぁ、いわゆるさぁ、すぐ外国に行きたがる、クリエイティブな人種が嫌いなんだよね」
 「ねぇ、聞いてよ。大学がつまんないのは、賢人とされてる人が、わたしのクラスでは株でもうけたどうしようもないローズヴェルト大統領の顧問なんだよ。ぜったいありえないよね。悔しいから、黒板にエピクロスの名前かきまくっちゃった」

 こんなふうに、二人とも、おのおのに思い描く「センス」をもって他人を高みから「こいつもセンスねぇ、ありえねぇ」とさばき、あげくの果てには世に背を向けてすねちゃう、インテリや、ミーハーなものをやたらと嫌いたがるサブカル・アート系半グレ兄妹なのである。

 ズーイもフラニーも俳優として「センスへの自負」「芸術へのこだわり」がハンパないので、俗世間からかなりグレちゃってるというか、
 しかもガキんときに、テレビ番組に呼ばれて、天才や天才や言われて、もうそれがコンプレックスとなって、今日まで「世の中の連中はバカだし、おれ達はフツーじゃないんだ」というプライドを引きずったまま大人になっちゃった愛すべき自己愛こじらせ兄妹なのである。この二人のこじらせは「根が深い」のである。
 
 「いやぁ、わたしだって有名になりたいし、人から評価されたいんだよ。でもそんな自分がいやらしくて恥ずかしい、たえられない。だから出家する。イエスさまにお祈りするんだ」というフラニー。
 フラニーはとうとう、あまりの自己愛の病に耐えられなくなり、出家して煩悩を捨てようとしていた。
 しかしズーイの次の一言でフラニーは完全に論破されてしまう。
 「いやフラニーおまえ、さっきから、宗教とかイエスとか言ってるけどなー、この家のなかで一番宗教的な行為を、おまえ見逃してんだぞ。わかんねーのか」 
 フラニー「・・・・?」
 「いや、さっき母ちゃんがもってきたチキンスープ、おまえさっきいらんってしてたろ。あれこそ宗教的な行為だろーが、人に何かをあげるっていう、この世で最も神聖な行為を、おまえ見過ごしてんだぞ」
 
 こういうことを言われ、フラニーだんまり。
 
 「おまえはやっぱり芝居をやったほうがいいよ」とズーイ。
 「でも・・・どうすればいいの・・・・芝居やってても、みんなの自己顕示欲が気になるし、有名になりたいとか、そういうの思っちゃうんだよ」
 「太ったおばはんのことを考えろ。そういうときは、太ったおばはんがどっかにいて、その人が自分の芝居を楽しみに見てくれてると思え。その人のためにいい芝居をする、それだけを考えてたらいいんだよ」
 
 まさにフラニーと同じ自己愛煉獄地獄をくぐりぬけたズーイならではの上級者のたしなみ「太ったおばはん解決法」なのであった。

 これは自己愛の病に狂いとりつかれてあがきくるしむ者同士の対話を描いた、まさに自己愛文学だと思ったのである。
 クリエイティブ系志願者もどきの自分には、ちょっと胸に迫ってくる一冊なのよ。

 ちなみにこの小説。兄のズーイから太ったおばさん解決法をおしえてもらったフラニーが「そっかー」と元気を取り戻しベッドに入って眠りにつく、という名シーンで終わるんだけど、野崎訳だと「しばらくの間、天井に微笑を向けながら、静かに黙って横たわっていたが、やがて深い、夢もない眠りに入っていった」(旧p230)とあり、フラニーが最後に眠るところで終わる。
 しかし、春樹はここを「夢のない深い眠りに落ちる前の数分間、彼女は静かにそこに身を横たえ、天井に向かってそっと微笑みかけていた」と書き変えているのである。

 春樹はここでフラニーを「寝ささない」のだ。そして「微笑」を最後に持ってきて終わる、ていう。
 このラスト一文に、ボクは春樹の作家としての長い工程の末生まれた、凝縮された決めの一手を垣間見たような気がしました。