作家志望必読の書。丸山健二が語る作家の才能「まだ見ぬ書き手へ」を読む。

 

 なんか最近になってアイデアが糞詰りになってきた。これといった発想が全く湧きでてこない。まだなんにもデビューしてもないのに、米びつがカラだ・・・。底を尽きた・・・。アマの分際でこの体たらくって・・・・やばくね? どうしたらいいのかなこれ。将来の見通しはつかないし、彼女もいないし、誰からもメール来ないし、そしてアクセス数は増えねぇし、いよいよ人生どん詰りな気配がそこはかとなくしまくってんだけど・・・。こういう時は、そうだ。なにかえらい大作家さまの書いた指南書でも読んで気持ちをたかぶらせよう。そう思いたち、こういう本を手にとったのである。丸山健二の「まだ見ぬ書き手へ」。これはすごいぞ。孤高の作家、丸山健二が才能のある作家志望(まだ見ぬ書き手)と、才能のない作家志望とを、はっきりとタイプ別に言い切った本なのだ。

 

まだ見ぬ書き手へ (朝日文芸文庫)

まだ見ぬ書き手へ (朝日文芸文庫)

 

 

正直言うと、読むまえになんとなく期待した自分がいちゃったのだ。自分の性質が、才能がある者ってことになってたらいいなぁって。自分を肯定してくれるような言葉があったらいいなぁって。希望的観測で。そしたらいきなり冒頭で、

 私が期待し望むところの「まだ見ぬ書き手」は、その数が想像以上に少ないかもしれません。これはあくまで憶測にすぎないのですが、「まだ見ぬ書き手」は案外小説を志す人たちの中にはおらず、文学なんぞ青くさくて話にもならないと思い、他の世界できちんと現実に立ち向かいながら、着実な仕事ぶりをしている人々のなかに埋もれているような気がしてならないのです。

 

 こういうことを言っていて、フリーターのボクなんか恐ろしく早い段階でアウトだと思った。1000人の作家志望が走ってたら、もう998人ごっそりここで脱落だ。作家志望ってだけで、丸山健二からしたらもう甘ちゃんなのだ。作家という肩書きには興味がなく、ましてや作家になるなんて夢物語だと謙遜し、堅実な仕事をしながら、昨今の小説に対して物足りなさを感じている。そういう人間が丸山健二の言うところの才能のある書き手になるのである。「あたし作家になりたいんです」という欲望にすでに、本物の表現者とはちがうよこしまな気持ちがあることを丸山健二は見抜いているのである。「お前本当は小説書きたんじゃなくて作家っていう肩書きが好きなんだろ」って。その時点で偽物だよって。

 そしてさらに丸山健二が語り作家に向いている三つのタイプがこれまた痛烈。
 
 小説を書いてみようと思うタイプには、大きく分けて3つあります。まずそのひとつは、誰々のなになにという作品のような小説を自分も書いてみたいと思って筆を取る(憧れタイプ) かれらの人数はとても多く、たぶん全体の9割か、それ以上を占めているでしょう。だからといって、それがわるいと言うつもりはありません。しかし、私はこう言いたいのです。憧れる作品があるのなら、自分でわざわざ書く必要はないでしょう、と。どうしても書きたいのなら、趣味の範囲に留めておいて、間違ってもプロを目指したりしないほうがいいでしょう、と。あなたには才能はありません。

 
 しかし、これには反論したいですな!!!。才能がないと言いきってしまうのは、あまりにも早計すぎるのではありませんか。みんな昨今の大巨匠と呼ばれる人たちも最初は「あこがれ」から始まってるじゃないですか!。宮崎駿手塚治虫あこがれだし、中上健次なんか大江健三郎あこがれだし、「あこがれ」から自分の世界をつくってきた人のほうが数としては圧倒的に多いはずだ。問題は「あこがれ」から脱皮できずに、村上春樹の亜流、江國香織の亜流になってしまうことであって、「あこがれ」そのものが悪いことではないとボクは声を大にして、いや声を小にして言いたいと思った。丸山健次言い過ぎダヨーって。

 さらに丸山健二はこう続ける。

 そして第二のタイプですが、これは誰かの作品に憧れて筆を取るタイプとはいささか異なり、これくらいのものなら、自分にも何とか書けそうだなと思って書き始めるタイプです。これは第一のタイプよりははるかにマシで、見込みもあります。才能があるとはっきり断言はできませんが、やってみる価値はあります。

 読んで冷や汗が出た。まさにオレじゃんって。でもちょっと褒められてる。見込みあるんだって。でも・・・褒め方が中途半端というか、微妙である。大本命ではないのか。結局丸山健次の言うところの待ち望むタイプとはなんなのか。

 
 さて、三番目のタイプですが、かれらこそ真の書き手になれる、本物の才能の持ち主なのです。この程度の文学が文学といえるのかと疑い、やがてこんなものは文学ではないときっぱりと否定するに至り、文学に背を向けて別の世界で生きることを考えるか、あるいは、自分ならもっと凄い小説を書いてみせるとはりきって筆を取るような、そんなタイプ。音楽をあれこれ聴き漁ったあげくに「これでおしまいなのか」と呟き、絵画を一通り見たあとで「名画はこれしかないのか」とがっかりした口調で言うような、そんな男を私は待ち続けているのです。

 あなたは、もしかするとこの世を宇宙人のような部外者の目で見てはいませんか。そしてあなたは子供の頃から大人たちをびっくりさせるほど素早く本質に肉薄することができ、物事の核心を鋭く突くことができたのではないでしょうか。あなたは成長するにつれて、自分を抑えられないほど熱い力に振り回され、その反動で絶望のどん底に突き落とされ、普通の若者が夢中になれることが白々しく感じられるといった経験はしなかったでしょうか。
 あなたは形にこだわるのが嫌いで、決められたレールの上を行くことに嫌悪感を抱き、力の強いものに従うことを忌み嫌い、人の上に立ちたがるような夢も抱かず、反抗心が強く、正義感も強く、だが矛盾だらけで、その矛盾に苦しみ、やり場のない怒りとすて場のない悲しみを持ち、虚無的でありながら決して逃げることはない、というような人間ではないでしょうか。もしそうだとすれば、あなたは間違いなく、第三のタイプです。

 
 きたぁああああああああああああああああ!!! これはまさしく。・・・・・・・オレや。オレやオレ。第3のタイプ!!! オレオレ!!! 第2かと一瞬思いそうになったけど、違ったよ。これだよこれ。世の中にあるものに物足りなさも感じてるし、決められたレールを歩くのが嫌で、今はニートだし、アイフォーン5とかフェイスブックとかつねにクソだと思ってるし、正義感はまったくないけど、すごい虚無的だよ。オレは。ネガティブだし。やり場のない怒りとすて場のない悲しみも、よくわかんねぇけど、持ってるよ、たぶん。こないだもNHKのドキュメンタリーで泣いたし。 
 でもよく考えてみると、子どものときに常識の核心を鋭くついたことは、正直、ねぇなぁ・・・。普通に、普通のそこらへんのガキがやるように遊戯王とか、ポケモンとかやってた。もうアホみたいに。もっと冷静になると、ここの箇所で、そう思わずにはいられない作家志望の自己愛みたいなのも加味すると、ほかの連中もここを読んで「オレもオレも」みたいなことを思う可能性もあり、うかつには喜べない。そのあとの箇所で、丸山健二が「才能のある物は自己嫌悪に陥る」って言っていて、ここでもまた「それオレオレ」の感情が喉元まできたが、自己嫌悪に陥らないやつなんかいないだろ・・・と思うと、ここでもやはりちょっと目が覚める。この本、厳しいこと言ってるようで、物書き志望の自己愛を刺激する本なのだ。「アート・スピリット」と同じく、ちょっとあんまり感化されると、ほんとに人生のレールをがたっと踏み外すこと間違いなしの本である。本気で作家になりたいなら「友達とかつくるな」とか「家庭をもつな」とか、「一ヶ月人と喋らくなくても平気な人が向いてる」とか、かなり無茶なことを言ってる。こんなこと本気で実行しようとしたら、世捨て人まっしぐらではないか。所詮その程度の覚悟しかないやつに物なんて書けないよ、ということか。厳しい。なんか甘ったるい詩とか書いてる文芸サークルの女子とかに上から目線で無理やり読ませたい。