作家志望を絶望に追い込むほど早熟な天才作家たちの作品を語る。

 なんか最近やたら褒められるのです。それも赤の他人に。先月はアマゾンのアフィリエイトで二千円もらったし、なんかこの頃ついてることが多い。日ごろまったく他人から評価されないフリーターのボクにとって、望外の喜びです。

 街の中の雑踏に一人足を踏み入れても、前までは孤独と不安で押しつぶれそうだったボクでしたが、褒められた瞬間、「俺には才能がある、お前も虫けら、お前も虫けら」と傲慢に人込みをかき分け、もう無双状態です。ところが、どこからともなく耳元で「調子乗んな。うぬぼれんなカス。お前なんてたいしたことない。どこにでもいる一般ピープルだ。そのことは自分が一番よくわかってるだろう。才能があるってのは、こういうことを言うんだ。」という非常にシビアーな声が聞こえてきました。

 

 ・綿谷りさ 執筆当時17歳

 

蹴りたい背中 (河出文庫)

蹴りたい背中 (河出文庫)

 

 

 

 読んだ後、落ち込みます。言葉の精彩が違う。単語の連なりがきらめいてるのです。間違いなく当時の著者よりこっちのほうが本はたくさん読んでいるはずです。でも小説の才能には、もうそんなの全然関係ないのがよくわかるのです。この本のあとがきで、高橋源一郎氏が「この世には、自分の吸収した言葉のように吸収し、奇跡のように結晶化できる人間がいる」と言っていますが、まさしくほんとにその通りで、どんな含蓄のある文学的教養や、哲学を持ってようが、その一粒の結晶化した言葉が紡げなければぜ~んぶ骨折り損の草臥れ儲けになる。こういうタイプは本なんか全然読んでなくても、新人賞みたいなのがポンっととれちゃうのですな・・・。悔しいけど。自分の頭の中にあるわだかまりを、平易な言葉で的確にアウトプットする能力。これは鍛えようと思っても、限界があります。サッカ―の入門書腐るほど読んでも、サッカーの才能がなければうまくはならないのと同じで、いくら努力と称して文学書や脚本術を読んでも、身体的に表現する能力がないと、ぜんぶ徒労に終わってしまう・・・。「煮えたぎって揺れ落ちる地獄の洛陽が、部屋を有害な蜜色に染め上げていた」どうやったら17歳のはしたない小娘に、こんな表現が書けるのか? こんな末恐ろしいおなごに、勝てとはいかないまでも、同じ土壌に上がるぐらいにはどうしたらいいのか。途方にくれる作家志望も多かろうと思うのです。ボクも長らくこの問題に悩まされてきました。しかし、あるとき、一つだけ方法を見つけたのであります。17歳で作家デビュー、芥川賞受賞、フラッシュバシャバシャたかれて、印税がっぽり、しかもどえらい美人。普通じゃない。庶民ではないことはよくわかります。天才です。生まれてこのかた向けられている目線の数が違うのです。何が言いたいかというと、つまりこっちは、庶民の卑小さで勝負するしかないのではないでしょうか。いくらこの綿谷りさとかいうおなごが庶民的な感性を持っていようと、実際、見ている世界はこっちとはまるで違うはずです。こういう才色兼備な奴には、凡人の苦しみがわかるはずはない! そういう意味で、泥の粥をすするような生活に甘んじている庶民の辛さを代弁できるのは、こちら側に分があるはずですよ。

 

 大江健三郎 執筆当時23歳 

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

 

 

 読んだあと、くやしいと思った。飛行機事故で落下してきた黒人兵と、村の子供たちとの短い交流を描く大江健三郎の暗黒ジュブナイル。日本のド田舎の共同体に突然放り込まれた黒人という異質な組み合わせが、異常な迫力で迫ってきます。子供たちがもつ黒人への露骨な差別意識がしっかりと描かれていてかなりリアルなのです。そして自然描写が恐ろしくきめ細やかで、圧倒されること必死です。昨今の売れている小説を読んで「このぐらいなら、俺にも書けるんじゃね」とか思ってる糞野郎は、これを読んで絶望してみるといいと思うのです。23歳だぞ。23歳って。来年じゃん。

 

 丸山健二 執筆当時22歳

 

夏の流れ (講談社文芸文庫)

夏の流れ (講談社文芸文庫)

 

  これもまたすごい。デビュー作。丸山健二の。丸山健二って、自伝とか読むと、若いころはめちゃくめちゃ性格悪いの。もう自尊心の塊って感じで、自分のことは天才って確信してて、俺はなんでこんなゴミみたいな連中とつまらねぇ仕事をしなきゃいけねぇんだ、とか思ってて、ちょっと片手間に書いた小説が芥川賞とっちゃうわけ。なにがすごいって。そういう自惚れ野郎が書いた小説って、たいてい糞つまらないはずなのに、この小説は、なにか違う。そういう自惚れからくる自己陶酔感が垣間見えないのです。同じ年でデビューした北方健三のデビュー作(明るい街へ)や、中上健二の「海へ」なんか、自分の小説にめちゃくちゃ酔いしれている感じがするのに、この小説にはそれがまったくない。まず臭い比喩がない。まどろこっしい言い回しもない。文章も簡素。死刑執行をまじかに控えた刑務官の日常を、めちゃくちゃ淡々と、感傷的にならず、クリアに描いている。22歳の自尊心の塊が、ここまで冷静に、抑制の効いた小説を書けることにまずびっくりするのです。さらに凄いところは、この作品、死刑囚との心の交流がまったくないんですよ。普通こんなセンセーショナルな題材だったら、なにかしら死刑囚との感情のつながりを描こうとするのが本来のやり方ですが、今作では、そういうのがいっさいない。死刑囚とはまったく相いれぬまま、死刑を執行し、そのまま淡々と終わっていく。凄い小説である。というか22歳て。今じゃん。終わった。

 

 三島由紀夫 執筆当時16歳

 

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 

  

16歳て… 16歳て・・・ と、読んだあと思わず呆然としてしまう三島由紀夫のデビュー作。まず冒頭「この土地へきてからというもの、わたしの気持には隠遁ともなづけたいような、そんなふしぎに老いづいた心がほのみえてきた」って、こいつ16でどれだけ人生達観してるんだって感じのする一文にドン引きする。酸いも甘いもかみわけすぎだろこのガキ。こんな奴クラスにいたら絶対いじめてるよ。そこからずっと爺臭い文章が死ぬほど延々と続くのである。「追憶は「現在」のもっとも清純な証しなのだ」とか「生がきわまって独楽の澄むような静謐」とか、「美は秀麗な奔馬である」とか、なんだかわかるようで、正直さっぱりわからん文章が、延々と・・・つづく、延々と・・・。実は途中で読むのやめた。だから二パーセントも理解していない。あとがきで三島由紀夫自身が「この小説は若年寄りで気取ってる」って言っていて、ほっと救われた気がした。あーやっぱり背伸びしてたんだ。よかったーって。しかし背伸びでも、16歳でこんな爺臭い文章を書けるこの才能は尋常じゃない。

 


以上、作家志望を打ちのめす天才たちでした。
みんなも読んで、絶望してみてね。