~無能社会人(29歳非モテ職歴なし)が、映画「ジョーカー」を見た結果・・・・。

  

  フリーターの状態を繰り返し、一人一日中図書館でブラブラしてる様な人間なので、映画「ジョーカー」を見た時は、心が少し動揺してしまった。
 人生に全く希望を見出せない人間なんだけど、この映画には、並々ならぬ、関心を抱いていた。で、見たのだが、結論を言うと、

  

 ジョーカーは、凄い傑作だ。みんな見た方が良いぞ。なんてったらいいか。非常に説明が難しいけど。なんか。この映画、弱者の描き方がとしても秀逸なのだ。

 

 例えば弱者が巨大権力に連帯して挑む、みたいなストーリーを予想する人はいるだろう。ワシもそう予想していた。でもジョーカーは、そうならない。非モテが怒りをぶつけて暴走したら、勝手に祭り上げられ「空っぽの偶像」として崇められる、と言うニュアンスがワシはすごく好きなのだ。

 

 弱者は若い時期に(他者からの強烈な拒絶)を味わっているので中々集団化できない側面がある、そのリアリティを本作は、よく描けている。だからジョーカーは、安易に「弱者の連帯!」などと謳わない。基本的に「弱者は、連帯できない」と言う冷たい結論を導き出す。そこが、良い。

 

 ジョーカーが狂った要因は、色々あると思う。福祉制度の欠陥とか、虐待を受けた過去とか。色々な解釈はできる。でもワシは、そうではないと思う。ジョーカーが一番何に狂ったのかと言うと、彼が情熱を注いできた「笑い」が、立場が変われば、暴力に変わる事に気づいたからだ 

 

 ロバートデニーロ演じる喜劇王にテレビ画面の前でジョーカーは「からかわれる」。憧れの喜劇王にからかわれ本来は「おいしい」役回りのはずなのに、ジョーカーは切れる。何故か、彼は、気づいたのだ。
 「いじる側」が優位な立場にいてその席を「からかわれる側」と「交換できない」立場で発せられる「からかい」は笑いではなく、暴力だと言う事に。「からかい」が、「笑い」で済む関係とは、「いつでも立場を交換できる」関係においてのみ発生するのだと。

 ジョーカーは、「自分の声」を金持ちだけが発表できる現実に気づき、その現実の破壊をもくろむ。ジョーカーの目的は、金持ちの公共空間を破壊すること、だったのだ。

 いやもっと端的に言うなら、

 ジョーカーの目的は、「貧者の可視化」であった。

 世間に貧困を晒しめ世間の常識に揺さぶりをかける。これこそが、ジョーカーの目的やったんやないかなぁ。とワシは思う。

 5年前、秋葉原殺傷事件を起こした加藤 智大は、自著で、事件を起こさないようするためにどうすればいいかと考え、「空白を作らない事」を答えた。人間関係で、空白を埋めれれていくこと、これがまさに人を人たらしめている要因ではないか。

 空白を埋める事がいかに大切か。そういうことをジョーカーを見て感じたのである