2020年。日本バカデミー賞最優秀作品発表。キングオブくそ映画「福島50」

 

 

 

 なんか最近、元雑誌記者、作家、門田隆将氏が描く福島の原発の事故を描いた映画「福島50」を見て、凄く驚いた。賛否両論、だ、と言うので見たら、確かにこれは賛否両論なの分かる。右派、左派から、全く異なる反応を呼び起こす本作。一体何が起きたのか。当時の政権担当が民主党だったので、政治抜きにしては語れない本作。で、私、先日見たのだが、はじめに結論を言おう、私がこの映画を見て素直に思った事・・・・・・18点だ。見所はあるが、まあ、ふつうに駄作だと思った。いや、いいシーンもあんねんで、

 

 例えば冒頭の津波は、流石に迫力がある、嘘くさくない。現場のセットのリアル感も、史実に再現されている。だが、この映画には問題がある。それは政権の描き方や。

 リベラルが、超怒ってるのは、主に三点。当時、政権与党だった菅には「禍根」が三つあると言われている。①現場に来て現場を混乱させた。②ベントの作業を邪魔した。③怒鳴り散らし、現場の士気を下げた

 ①について、政権のトップが現場に来た事は、確かに問題がある。現に、原作では、吉田社長が猛烈に菅に憤っている。現場を混乱させたのは事実だろう。だが、菅の言い分にも一理あって、当時事故が起きた際、総理自身が誰に聞いても「わかりません」と答えるので、行くしかなかったというのが菅の言い分だ。つまり、危機に際し、十分な情報を共有できなかった「本店、官邸、現場」の複合的な責任だと思うねん。この点に関しては、そこまで菅が一方的に悪く描かれているという印象はなかった。

 で、リベラルが一番怒ってるのは、だ。ベントの作業が菅の来訪で遅れたという描写だ。ベントってのは、格納容器の圧力を、外部に排出させる事なんやけど、ベントの作業が遅れた最大の原因は、菅の来訪ではなく「放射能だ」という事を、当時の原発職員が証言している(福島第一原発7つの謎P70)。あと政権が、海水の注入を中止したというのは、右派の流したデマだ。しかも、そのデマの元凶が、安倍晋三だ。当時、爆発を避ける「ベント」をやろうとした際、海水にホウ酸を混ぜることで再臨界を防げないか、と政権が検討を要請したのだが、この時「海水注入が始まっている」事を菅は知らず、本店の武黒は、菅にその事実を直接伝えず、吉田氏に「止めろ」と電話したんや。海水注入中止を命じたのは、菅ではなく、武黒なのである。(ここらへんの経緯は、「全電源喪失の記憶」(高橋秀樹著)が詳しい)

 

 それを安倍が倒閣の為か、菅直人が「海水を止めた」と虚偽情報を流しそのデマを定着させてしまう。その後、安倍は名誉棄損で訴えられるが、菅は敗訴してしまうんや。安倍は、当時野党だったので、事実を判断する際に十分な情報がなく、「間違ってデマを流した」として、名誉棄損には当たらないとされたんや。

 

 映画では「菅直人がベントを邪魔した」風な描き方になっているので、これは確かに批判するべき箇所である。でも、ワシ、あんまり菅を、擁護する気になれへんねんのや。というのも、菅の評判は、証言を聞くと、はっきり言って、悪い。まー菅ってよー切れんねんて。あんまり菅が、怒鳴るので、菅に怒鳴られたくないと武黒も、海水注入の事実を菅に言えず海水注入の停止を命じたらしく、海水注入の件も、元は、菅の怒りんぼが原因だ。劇中で、佐野史郎も事実に近いらしく、菅擁護に流れるリベラルも、菅の性格は、批判すべき箇所じゃねーのとは思う。

 

 で、これまで政権の描き方を吟味したが、ワシ、この映画、単純に、映画のクオリティが低いと思うねん。例えば、回想シーンが、この映画、やたら多い。なんか佐藤浩市が、娘の結婚で揉めるシーンとか(そのエピソード自体が蛇足なんだが)で、更に、アメリカ軍が途中で出てきてコイツがダニエルカールなんやけどコイツが「昔、俺は、福島原発の地元で暮らしていた」みたいなクッソどうでもいいエピソード語り始めて、そいつの子供時代のふぁ~って回想になって、地元で子供たちとワァ~って走り回っている、みたいな、なんか純粋だったあの頃・・・・みたいな感じで、回想シーンが入るんやけど、この回想シーンが、はっきり言って、ダサいねん。
 

 

 で、最期も、主演の(渡辺謙)が死ぬねん。そしたら佐藤浩市が桜をバックに出てきて、泣きそうな表情で、「ケン・・・」みたいな感じで、男の友情極まる、みたいな感じで終わって行くんだけど、はっきり言って、それも演出が、情緒過多で、めちゃくちゃださいねん。

 

 で、一番脱力したのは、ラストや。

 急に俯瞰のショットになって、なんか最後にクレジットで「東京オリンピックが福島から始まる」って・・・

 

  え?なにこれ? 東京オリンピックのPR映画だったの?みたいな。官製映画を私は見せられたの?というか。次はオリンピックです。原発は片付きました。みたいな感じがしてすげー脱力してしまった。

 

 しかもこの後で、糸井重里が、この映画で「泣いた」とか言うとんねん。いや、糸井重里が泣こうが別にどうでもええんやけど、そのコメントが酷いねん。いまの時代は「いのち」は無条件に守られるべきものであるから、「命を捧げる覚悟」は描きにくい。みたいなこと言ってて、脱力してしまった。自己犠牲に感涙したらしいのだが、ワシは、この映画の自己犠牲に、泣くことはできなかった。何故なら自己犠牲を「同意」と誤って決定をなすくらい危険なことはまたとないからだ。

 

 

 自己犠牲は、本人の「自主的な決定」なのか。は、まず疑ってかかるべきだ。人間は、生死を懸けた状況で、「NO」と言えるようには出来てないし、その場の空気「どうしてお前は手を挙げなんだ」という圧力に、押されることもあるからである。

 

 自己犠牲は、安全と両立不可能であるどころか、むしろ「悪い制度」の一形態だからだ。だから反射的に自己犠牲に「泣く」糸井重里は、社会の問題を結果的に温存してしまう可能性を助長する、大変危険な人物だと断言せざる負えない。
 というわけで、色々言ったが、この映画。いい題材が、お涙頂戴風の演出で、台無しになるクソ映画でしたので、今年度私が選ぶ2020年日本バカデミー賞キングオブキングくそ映画に認定します。この映画が受け付けなかった人には、極めて情緒臭い感情を排除した「全電源喪失の記憶」は、映画より、緊迫感があるので、おすすめです。

 

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発 (角川文庫)