~ホステス給付拒否から外国人排除まで~福祉原理の視点から国家が「弱者を救う理由」について語る

  

 

 


 なんか近頃特定の人が「自己啓発風味の自己責任」や「努力論」を説き、世の中に実害を与えている。国に文句を言うなとか。誰かを責めるな、とか、酷い所になると、ホステスに税金をやるな!とか、外国人にやるな!とか、意味不明な事を言う人が沢山居る。コロナの影響で「変な持論を持つ人」が次々に出始めているが、私は、この騒動を、改めて俯瞰した時にこの騒動は「福祉とは何か」を突きつけた騒動な気がするのだ。なぜ福祉の話になると、日本人は良くて、外国人はダメなのか、なぜ給付になると、ホステスはダメで、弱者は救うべきなのか。と言う点に、日本人の「間違った福祉観」を垣間見た気がしたので、今日はそこら辺の問題について語ってみたいと思う。

 

 

 まず、何故、私たちは、第一に「生活保護や、障害年金」と言って、自分の知らない人を助ける必要があるのか、という事なのである。根本のところに立ち返ろう。「福祉原理」と言う福祉の歴史について書かれた本があるが、この本によると、今から何百年も前、昔の人は、自分の知らない他者に超冷淡だったんや。貧しい人は野垂れ死ぬしかない。超自己責任社会。身寄りが無ければ死ぬしかなかったのだ。そこに、神のような男が突然現れた。イエスキリストだ。イエスは、凄かった。何故なら、身分や宗教に関係なく、彼は、誰だあれ、貧しい人に施しをしたのだ。これは画期的だった。それまで貧しい人を救うのは、家族だった。が、イエスは、貧しい人のセーフティーネットを家族から、宗教に変えたのだ。 
 で、それ以来、キリスト教が、主に貧しい人を援助していた。だが、これはあくまで「慈悲」だ。国家は、貧しい人間には、それまで無関心だったんや。興味が無かったのだ。ところがある時、国家が、急に貧しい人を援助するようになる。何故、今まで「宗教」だったのが、国家が、急に援助し始めたのか。という所がポイントだ。 端的に言おう。それは疫病の流行や。貧しい人を放置していると、病気が蔓延する事が分かり、貧者の増大は、衛生環境の悪化に繋がると知り、国家が、急に「貧者」救済に乗り出してきたのだ。そして人類は、痛感した。慈善よりも、価値と効果において貧者への救済は、行政の方が「優れている」と言う事を。何故なら、国家には、強力な軍隊と、徴税制度が、あるからだ。

 私たちが今安心して暮らせるのは勝者が、敗者に抱く「惻隠の情」(哀れみの心)を排除したからだ。

  人類が、長い歴史を経て、一つのことを学んだ。それは、助けるものと助けないものを恣意的に選別していくと、そういう社会は、そもそも国家として繁栄しなかったという事実だ。

  

  福祉は、国家が「弱者を救う」事で「疫病を防ぐ」為の制度であり、ゆえに本田圭佑「国に文句を言うな」発言も、糸井重里「責めるな」発言も、この場合、間違っている事になる。

 何故なら「国に文句を言う」事は、国防の義務だからだ。ホステスも、外国人に給付を拒否する人々も、間違っていることになる。何故なら、一人の人間が困窮すれば『全ての成員に感染する「『疫病』」の存在により「個人を見捨てると、国が弱体化する」と学んだからだ。

 

 端的に言うと、疫病は、自己責任シニシズムが最大の温床なのである。

 

  以下のような事が、
 私が、糸井重里や、本田圭佑の発言に、抱いた違和感だ。あまりに福祉観を「歪める」発言を文化人著名人がしすぎなので、これは危険だと思うので、ちょっと言ってみた。誤った福祉観が端的に見られたので、こういう人には岩崎晋也氏の「福祉原理」がおすすめです.

 

福祉原理 -- 社会はなぜ他者を援助する仕組みを作ってきたのか

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