『去りゆく者への言葉』

 

 

 

 派遣先の印刷会社をクビになって以来、することもないので、とにかく朝起きるとアパートを出て、駅前の立ち食いそばによる。出勤前のサラリーマンとともにソバをすすった後、さて今日は何をしようか、と考え込み(だいたい行く先は決まってあるのだが)駅からほど近い人気のない公園のベンチにすわり、図書館で借りた物故作家の全集を読んだりして、ひとしきり暇を持て余しながら一日の大半を過ごすのである。
 たまに求人誌を手に取ってはみるが、めったに読むことはない。失業手当はあと一カ月で切れるので、そろそろバイトを探さなくてはと思ってはみるが、私という人間は一度腐ると、とことん腐りきらないといけない性分らしく、求人のページを開く、ただそれだけのことが億劫で、いつも求人誌をねじ丸めてコンビニのゴミ箱に放り込むのが一日の日課となっていた。
 ここ何週間は、ずっとそれの繰り返しだったのだが、失業手当が終わるという報せが書面で届くと、はじめて危機感を覚えて、やむなく思い切って求人誌をひらき第一志望であった仕事先へ電話をかけてみることにした。34歳という年を告げると店長と思わしき人物は「あー、ちょうどよかった。今新人の子が突然居なくなっちゃって困ってたとこなんですよー」と好感触な応対をしてきたので、私はそこで合格の兆候を感じとり、肩の力が抜けていくのを感じた。駅と大学の境にある小さな書店のアルバイトだった。指定された通りの日時に面接を受けにいくと、電話口の感触の通り、急場しのぎですぐに採用となった。
 若いときは面接をするときに「君はどういう進路を考えてるの」「将来の目標は」など、野暮な質問をかけてくる雇い主がたまにいたりするが、34という年になると、年齢を言うだけで向こうは「あ、そうですか」と言ったきり、それ以上は何も訊いてこないのだった。私の履歴書が空白だらけなのも功をなしたのか、34でフリーターという事実はそれだけで有無を言わさぬほどの(悪い意味で)説得力をもっているのか、「休むときは事前に必ず言ってください」と注意事項を言われるぐらいのことであっけなく済んでしまうのだった。
 「ここ若い子ばっかですけど、大丈夫?」
 「ええ、大丈夫、だと思います」
 私がそう返すと、向こうはすぐに事務的な笑顔を見せ、
 「じゃあ、明日からおねがいします」と言って、面接は5分ほどで終了した。

 脱ぎ捨てられた衣服と、二千冊もの蔵書がある本棚のほかには何もない、四畳半一間のアパートの自室に戻ってくると、むっとむせかえるような、生ぬるい空気が口のなかに入ってきた。
 葛西善三、嘉村礒多など、往年の私小説や、近代文学の黄ばんだ古書の匂いと、タバコの吸い殻がいりまじった空気は、夏の暑さと、日の当たらないむさくるしい部屋のなかで充満して、うずになり、ドアを開けた瞬間、一気に鼻をついてくる。
 コートをハンガーにかけ、夕飯の支度に、買ってきた惣菜をテーブルにのせて、一人で缶ビール片手にテレビを見ていると、レディー・ガガの特集をしていた。奇抜な格好をしたガガにアナウンサーが日本の若者に何か伝えたいことがありますかときくと、彼女は、「夢を諦めず努力を続ければ、必ずかなうわ」と答えた。
 二十代のころにこれを訊いたら諸手を上げて賛同しただろうが、今この年になってこういう言葉を訊くとどうだろう。なんてことを言う奴だとあきれてしまう。
 私はガガの言葉に気分を害し、買ってきた缶ビールをすべてあおり、ヤケ酒のむかつきと余韻を残したまま、翌日のバイトに出ることになった。


 「武藤さんって、やっぱりあれですか、派遣切りとかいうやつですか」
 一緒にシフトにはいった青年の第一声がそれだった。
 一瞬、冷や汗が出た。
 夜の書店は、昼に比べ人の出入りが少ないので、店員二人だけで回すことになっており、どちらかがレジをして、どちらかが品出しをするという具合に分担するのだが、ここの本屋に関してはあまりに暇なので、どうしてもお互いが手持ち無沙汰になってしまうときが必ずあった。そういう時、私は沈黙を恐れて会話の糸口を探そうと躍起になるほうなのだが、幸か不幸か、この本とは無縁そうな茶髪の青年は、気まずさなどお構いなしに話しかけてくるタイプの人種だった。
 「いや、店長が言ってたんすけど、あの人は、なんか色々ありそうな人だから、あんまり立ち入ったこと訊かない方がいいって」
 私は反応に困った。あの履歴書の空白を見れば当然と言えば当然だが、店長が私に対してそのようなイメージを抱いていたとは。私はそうとう陰気臭い人間にうつるらしい。
 「いや、まぁ、うん、あのー」と私がしどろもどろに応えようとすると、茶髪の青年は間髪いれずに「うわー、マジかー、恐えー」と甲高い声を出して、上半身をレジ台の上にのせた。
 私は自分が見世物になっているような気分だった。現代日本の病巣にからめとられた被写体。事実その通りであり、返す言葉がなかった。
 「結婚とか考えてないんすか」
 「いやぁ、考えてないなぁ」
 「じゃあ子供もつくらないの」
 「うん、まぁ、たぶん、そうだろうね」
 「うわーマジかー。つれーなそれ。じゃあ何を楽しみにしてるんすか、毎日」
 「・・・・・」
  いったい何を楽しみ生きているのだろうか。何年か前まで、小説を書くことが何より生きがいだとは思っていたが、雑誌の片隅に名前がのるぐらいで誰にも相手にされない時期がこうも長く続くと、どんなに好きでも、筆を折りたくなるものである。私はこの質問に「小説」と胸を張って言えない自分が情けなく思えた。
 「じゃあ、君は毎日何を楽しんでるの?」 
少し腹が立ち、訊き返した。
 「あー、なんだろうな、いあ、ちょっと色々あるけど、あー、しいていうなら、明美と一緒にいることかなぁ」
 青年は携帯をいじり始め、明美という女の写っている写メールを私の眼前にかざした。
 「まぁまぁ、いい女っしょ」
 「あぁ、」
 そうは言ったが、正直どこにでもいるキャバ嬢風味の女だと私は思った。
 「こいつねぇ、今俳優の養成所かよってて女優になるらしいんすけど。こう見えてけっこう才能あったりすんですよ。で、俺ここで働いて、こいつが女優になるまで裏方に回ろうかなと」
 「・・・・・」
 携帯の画面を見つめ煌々と目を輝かせる青年の姿を見ながら、私は吐き気にも似た不快感を催していた。
 『その面で女優になんかなれるわけないだろ』という言葉の群が喉元まで押し上げてきたが、グッとこらえ、「いいなぁ、夢があって、俺なんか、なんにもないよ」と自虐まじりに言って、その場をやりすごした。
 
 深夜を過ぎたころ、二人の女性客がやってきて、すると今まで寝ぼけ顔だった青年の顔が一気に明るくなった。
 「おう、明美
 二人の女性客はいかにもキャバ嬢といった風貌で、レジに立つ青年の周りを囲むと、甲高い声で喋り始めた。
 「あれ、今日辻元くんじゃないんだ」
 明美と思わしき女が言った。
 「いや、今日はこの人と入ってるんだよ。武藤さん」
 私は何も言わずに頭だけを下げるが、女たちはどうでもいいといった風情で青年の方を向きかえり、早口で捲し立てた。
 「ねぇ、のぼる、ちょっと訊いて。ほんっとムカつく。選考で面接まで言ったんだけど、そこの演出、頭おかしくて、『ゴリラやってみろ』とか『鳥なって大空を飛んでみろ』とか言ってきて、まぁそこまではわかるじゃん。だから私も嫌々やってたのね。そしたら突然『じゃあ、今度は日本を懐かしむジョン万次郎やってみてよ』とか言うんだよ。え、と思って、意味分かんないし、そんなの無理じゃん。で、無理ですっていったら、『わかった、じゃあ普通のジョン万次郎でいいや』とか言って、いや、普通もなにも、知らねぇから、ジョン万次郎をまず知らねえから。誰だよそいつって、私アタマに来て、途中で抜けてきたんだー、ほんっとあいつ殺したい」
 「ぎゃはは。うぜー、そいつはうぜーな。で結果は」
 「ダメに決まってんじゃん」
 「でも明美は大丈夫だよ。可愛いし、才能あるし。失敗するほど価値があるって!」
 もう一人の女がそう言って励ますと、明美という女は背筋をぴんと伸ばし、
 「うん、頑張る。立ち直るのだけは早いんだ私」
 とすがすがしい表情にうって変わる。
 私はこの一連のやり取りを見ていてやりきれない思いになった。哀れというか、厚顔無恥というか、どうしてここまで彼らは自信満々なのだろう。なんで彼らは自分の失敗を、価値があると思ってしまうのであろう。よく失敗には価値があるなどと言われるが、はたしてそうだろうか。価値があるのは、後で成功する場合によってのみだけで、成功のない失敗はやはり何の価値もないのではないか。失敗そのものには価値はない。後で成功するなら価値はあるが、成功のない失敗は、何度失敗しようが、何の価値もない。どうして彼らは自分の失敗が成功に直結すると盲目的に信じられるのだろうか。私のその内心が顔にあらわれていたのか、いつしか彼らから白い目を向けられるようになり、突然、
 「あ、今の見て」
明美という女が訝しげに私を指差した。
 私は最初、なんことかわからなかった。
 「おじさん」
 「え」
 「今お釣り返すとき、お札なめたでしょ」
 突然の指摘に、一瞬気が動転して、棒立ちになった。
 「あー、前から言おうと思ってたんすけど、やばいっすよ、武藤さんそれ」
 茶髪の青年はあきれたような、半笑いの表情が眼に焼きついた。
 冷たい悪寒が喉元まできた。
 「あー、ごめん、ごめん、つい癖で…」
 とっさに照れを隠すようにそういうと

 ぎゃははははあ。

 笑いが起こった。
 「ありえないよね」
 「世代間のギャップってやつ?」
 女同士の会話が耳に入ってきた。私は恥ずかしさで耐えられなくなり「ちょっとトイレ」とその場から逃げ出した。従業員トイレに駆け込み、顔を洗い、呼吸を整え、鏡に映った自分の顔を見た。 
 「お前らのような人間は腐るほどいる」
 彼らにこう助言をしてもおそらく耳を貸さないだろう。私がまさにそうだったのだから。彼らから漂う根拠なき自負心は、私が若いころ持っていたそれと同じだった。だから不快になる。昔の自分を見ているようで。無性に、腹が立ってくるのだ。
 彼らからしてみれば、私のような人間は一番尊敬に値しない部類の、おそらく最も忌み嫌っている大人であろう。彼らに何かを語ることができるとすれば「君たち笑っているけど、いつか必ずこんな大人になるぞ」ということぐらいしかないだろう、と私は思った。

 それから一月ほどたつと、仕事にも慣れ始めた私はほとんどフルタイムでシフトに入ることになった。
 都心で時給1200円という賃金で暮らしていくのは容易ではない。私はなるべく穏便に、目立たず事を荒立てず、このバイト先に年長フリーターとしてしつこく居座ろうと思っていた。
 
 バイトリーダーである辻本のぶひこという青年と一緒にシフトに入ったのはそんな折のことだった。あの茶髪青年から逃れたことで安心感を得ていた私だったが、この青年、あの茶髪とは打って変わり、非常におとなしく、向こうからこっちに質問してくるということは極めてまれだった。
 私は客が来ない間、この口数の少ない青年と隣り合わせになってお互い何も言葉を交わさずにレジに立つ時間が苦痛で仕方なかった。向こうもそれは同じであろうと思われたので、私はなんとか会話の糸口を探してみようと、
 「きみは大学生なの?」
 などと聞いてみると、青年は強張った表情をして、
 「あ、はい」
 とだけ答えた。
 「年は?」
 「今年で二三になります」
 「じゃあ、今就職中になるの」
 「はい、そうなんです」
 「そうかー。どこ目指してるの」
 「目指してるってものが、別にこれといってないんです。就職できればどこでもいいかなって」
 「そうかー、まぁこの就職難だし、それは仕方ないよね」
 「・・・・・はい」
 青年はそう言うと突然黙り込んだ。その表情から、就職というキーワードに対する私への配慮だと感じた。茶髪の青年とは違って、私の実情をささいな世間話でつつかないように極度に気を配っているらしい。しかし黙り込むことでより一層気まずさが助長されることを彼は気づいたのか、
 「武藤さんは、もうずっとアルバイトなんですか」
とあえて単刀直入な質問をしてきた。
 「俺はねぇ、大学を出たあと一回就職したんだけどやめちゃってねぇ、それ以来ずっとこれ」と楽観的な口調で私は答えた。
 「そうなんですか…」
 青年はそう言ったきり黙りこんだ。
 私もこれ以上訊かれたくなかったので、このぐらいで話題を切り替えようと思った。
 「君は、彼女とか居るの?」
 「いやぁ、今はいないです」
 「そうかー」
 「・・・・・」
 会話が止まった。私はもう手数がなかった。「毎日何を楽しみにしてるんすか」というあの茶髪のぶしつけな質問が思い出された。
 「何を楽しみにですか、うーん」
 その質問をすると、好青年は腕組みをして、しばらく考え事をするような仕草をとり、ちょうどレジに会計をしにきた客の弁当の値段を告げ、精算したのち、恥ずかしそうな表情で
 「小説を書くことですかね―」
と答えた。
 「えっ」
 心臓が一瞬、大きく鼓動した。
 「小説、書くの?」
 「…はい」
 「好きなの?」
 「えぇ、まぁ、はい。それに一応文学部なんで」
 「どんなの読むの」
 「乙一さんとか、天童荒太さんとかですかね」
 読んだことがなかった。しかし、こんな経験は初めてだった。普段身の回りで小説を書く人間に出くわすことなど、ほとんどない。今までの人生で味わったことのない軽い興奮が、全身をかけ巡った。
 訊くところによると、以前まで文芸部のサークルの部長を務めていたらしく、そこで自作の小説を仲間内に見せあっていたらしい。しかし、「文芸部ってちょっと痛いじゃないですかー」という本人の美意識により、部長を退け、今は一人でこつこつと書いているとのことだった。
 「え、武藤さんも書くんですか?」
 「えぇ、まぁ」
 「うわっ」
 私も小説を書いているということを言うと、青年は一瞬虚を突かれたような表情をしたのち、子供のように目を輝かせはじめた。
 「どんな小説を書かれるんですか」
 「どんな小説、そうだね、うーん、私小説ってわかる?」
 「あー訊いたことあります」
 「まぁ、それが主かな。まぁ簡単に言うとエッセイみたいなもんだよ。一度雑誌にものったりしてね」
 「え、すごいじゃないですか」
 「いやー、べつに凄くないよ全然、最終候補で落ちちゃったから」
 「最終候補、何の賞ですか?」
 「えーっと、文芸界」
 「えっ、文芸界ですか!? あの芥川賞の登竜門の!?」
 「うん、まぁ、うん、そういうことになるよね」
 「うわーすげぇ」
 青年の表情が羨望へとしだいにうつり変わっていく。彼とのあいだの壁が嘘のように消えていくのがわかった。私は今までに向けられたことのない視線を浴びて、ひさしく味わっていない感覚で、だんだんと気分が高揚し、調子にのり嘘までついた。最終候補というのがまず嘘だった。実際は一次選考で落選していた。
 「いや―でも凄いや、マジで、そんな人とこんなとこで会えるなんて。後でみんなに言ってもいいですか?」
 「みんな?」
 「ここのバイトの昼番、みんな文芸サークルの人たちなんですよ」
 「あーそうだったの」
 「みんなびっくりすると思います。メルアド交換しませんか?」
 「えっ」
 私は動揺した。他人からそんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
 「あー、迷惑ですか?」
 「いや、そんなことないよ。いいよ」
 こうして辻本という青年が私のとぼしい携帯履歴に加わることとなった。
 「武藤さん、明日シフト休みですよね」
 「あぁ、うん」
 「よかったら、うちの文芸サークルに来ませんか。あいつら中央公園に集まって桜見ながら朗読会やってるんですよ」
 「いやぁ、僕はちょっとそういうのは」
 「あ、すいません」
 「いや、浮かないかな。こんな30過ぎのおっさんが突然行って」
 「大丈夫です。そこは僕がしっかり武藤さんを紹介しますんで」
 「ほんとに行っていいの」
 「はい、是非来てください。みんな喜ぶと思います」
 青年の目に悪意はなかった。
 バイトが終わり、青年は別れ際「今度僕の小説を読んでください」と私に言って去っていった。
 自宅へ戻ると、「明日の午前二時、コンビニ前で待ってます」というメールが送られてきた。「了解」と簡素な内容で返したが、私は突如として降ってきたこのイベントに、悪い気はしなかった。明日どんな格好で行こう。私服がいいのか。それとも背広で行くのか。あぁ、どっちがいいだろう、としみだらけの天井を眺めながら、あれこれと思いを巡らしていると、自分の人生がわずかに上昇していくのを感じた。その日はまともに食事をとらず、ふいに舞い降りた幸福の予兆に、浸りきっていたのである。
 


 翌朝になって私は辻本君とコンビニで落ち合い、花見客でにぎわう中央公園へとやってくると、辻本君は「あいつらです」といって、桜の木の下でゴザをひいて円陣をくむ4,5人の女子学生たちを指さした。
 彼らに気づかれないように背後からゆっくり近づき「おつかれー」という声をかけると、4,5人が一斉に振り返り、「あ、辻本先輩だ」「びっくりしたー」「おつかれー」と若々しい溌剌とした返答が次々にかえってきた。
 「こちらメールで言った、武藤さん」
 辻本君が後ろにいた私を取り持った。「武藤です」とかるく頭を下げると、彼女らは矢継ぎ早に「え、武藤さん、ほんとに武藤さんですか!?」
 と興奮を隠しきれない様子でお互いに顔を見合わせ、「文芸界で最終候補になった人ですか」と訊いてきたので、私が「えぇ、まぁ」と謙虚に頷くと、「キャー」と耳をつんざくような声で集団が一気に湧いた。「今も小説書いてるんですか」「どんな内容ですか」「編集者から連絡あったんですか」と次々に質問が飛んできて、私がその気迫に押されていると「まぁまぁ、とりあえず自己紹介しようよ」となだめるように辻本君がその場を仕切り始めた。
 「私、文芸部サークルの部長やってます、えーっと、今年三年生で、工藤あさみって言います」一番背の低いロングスカートをはいた華奢な女の子が恥ずかしそうな表情で軽くあたまを下げた。
「あのー、ところで武藤さんは、お仕事は何をされている方なんですか」
 一瞬、心拍が跳ね上がった。
 「うん、まぁあの、就職は、したんだけど、まぁいろいろあってね、今は辻本君と同じ書店で働いてる。まぁ今はフリーターみたいなもんかな」
 「あぁ、なるほどー」
 工藤あさみと名乗るその女は、私がフリーターだと知ると、それ以上詮索しない方がいいと悟ったような表情で仲間と顔を見合わせ、
 「あの、これからみんなで朗読会やるんですけど、訊いてもらってもいいですか?」と言ってきた。私が頷くと、再び黄色い歓声が沸き起こり、
 「すごいよね、最終候補に残った人に訊いてもらえるって」「こんな機会めったにないよね」「あーなんかあたし緊張してきちゃったー」「うわーあさみちゃん手震えてんじゃん」「そうそう、なんか武藤さんが訊いてるってだけで、なんか、うれしくて」
 彼女たちの言葉ひとつひとつが私の自尊心をくすぐった。一生分の褒め言葉を全身に一気に浴びているような、そんな感覚だった。
 私は必然的にこの状況は人生でまたとない機会だと察して、
 「あの、ありがとう。僕は、その、同じ小説を書く身として、あなたたちが、こうやって集まって互いに切磋琢磨して創作に励んでいる姿を見るだけで、元気をもらえるんですよ、ほんとに」
と歯の浮くようなセリフを言ってのけ、その場をさらに湧かせた。

 まんざらでもなかった。この歳になって年端もいかない女子大生と一緒に創作活動ができるなど、昔の自分に想像できただろうか。遅れてきた人生の春が今更になってやってきたのだ。
 「あー、それじゃあ、朗読始めるんだけど、誰から始める?」
 「やっぱりトップバッターは、あさみ部長お願いしやすよ」
 「あーなんかいつもより緊張するなーやっぱり」
 神崎しずかは冊子を片手に持ち、深く息を吸い、「それでは…」と言って朗読し始めた。


 サヨナラ冷めた恋よ
 終わりさ、もう終りなんだね
 
 満ちきらぬ月が天の高いところに浮いて私を笑ってる
 その時、私は無垢だった
 失恋の痛さがこんなにも深いものだとは。
 彼の瞳は美しかった
 もうあの瞳に、吸い寄せられることも、もうないんだね。
 あぁ、月よ。月よ。私は歌う。
 漆黒の闇よ。私は歌う。
 
 硬いアンモビウムの花が私の悲しみを知っているように風になびいている。


 工藤あさみは歌い終わると、「どうだった」と心配げな表情で周囲の反応をみやった。「なんか言葉ひとつひとつが輝いてる」と部員の一人が言うと、「ほんっとに」と彼女は自信を取り戻したように、前の明るい表情へと戻る。私はあっけにとられていた。
 「『硬いアンモビウムの花が私の悲しみを知っているように風になびいている』ってなんかすごい表現ですよね。前回も思ったけど、あさみ部長って比喩がすばぬけてうまくないですか」
 「そんなことないよー。さゆりちゃんの前書いたやつだって、なんか比喩がすっごい素敵だと思ったな―私」
 後輩の女子部員からひとしきり褒められると工藤あさみは、恐る恐る私の方を向きかえり「どうでした?」と訊いてきた。部員全員が一斉に私を見たので、私はあせって、とりあえずあり合わせの答え方でごまかした。
 「ああ、いい詩だね。ただ『失恋の痛さ』っていうくだりは、やっぱり直接的すぎるんじゃないかな、最初に『サヨナラ冷めた恋よ』って言ってるんだから、もうそれで失恋だなって充分わかると思うんだよね。詩って、いかに心情を他のもので表現するかにかかってるじゃない。だからあの部分だけ、抜きにしたら、いい詩だなって思ったよ」
 私がそう言うと、部員から「おおー」という歓声が起こった。
 「やっぱり武藤さん、言うことが違いますね」
 部員の一人が私を羨望の眼差しで眺めた。
 「武藤さん、ありがとうございます。サークルの人以外にこういう詩、訊いてもらうの初めてなんで、すっごく緊張したんですけど、気にいってもらえたのならほんっとうれしいです。私ってやっぱり失恋したらはい次ってすぐ立ち直れるタイプじゃないじゃないですか―。だからこの詩を書いていた時もすっごく気持はいってて、なんかこう、けっこう感傷的になっちゃったんですよねー。だから反省点としては、そこかなーって、とにかくありがとうございましたー」
 工藤あさみはそう言って頭を下げると、バックから白い冊子を私にさし出した。
 「みんなの小説がのってます。もちろんあたしのも。よかったら今度読んで感想もらえませんか」
 私は冊子をうけとり、できるだけ胸の内を悟られないよう満面の笑みで、
 「ありがとう。じゃあ今度また感想を言いにここへ来ます」と言った。
 「辻本さん、また来てくれるんだって―」と工藤しずかが言うと、「わぁー、ありがとうございます」と部員全員が湧いき、それから部員ひとりひとりの自作の詩の朗読を聴きおえると、メールアドレスを交換し、その日はお開きとなった。
 帰り道、辻本君と二人並んで遊歩道を歩いていると、
 「苦手ですか、あういう空気」
 と彼が口を開いた。私は心が見透かされたと思った。
 「いやぁ、そんなことはないけど…」
 咄嗟にそう返したが、それだけでは足りぬと思い、
 「いや、ただ、今の若い子って、やっぱりぼくの時とは違って、なんか明るいよね。それにぼくのときなんか小説って暗い奴の専売特許だったからさ。今の子が書くものってやっぱりああいう『恋愛』とかになっちゃうのなかって思ってさ、いや恋愛がだめってことじゃないんだよ。でもやっぱりああいう女の子ばっかりサークルじゃあ僕みたいなのは浮いちゃうんじゃないかなって」
 私がそう言うと、辻本君は考えるような表情で頭をひねり、「う~ん、難しいところですね。ぼくも強引にさそわれたんで」と言ったまま、黙り込んだ。
 そこで会話が終わり、二人無言のまま道を歩いていると、「あ、僕この道左なんで」と辻本君がT字路で足を止めた。
 「ああ、そうなんだ」
 私がそういって別れのあいさつを切りだそうとすると、彼は恥ずかしげに押し黙り、自転車のカゴにいれていたバックからクリップで留められた印刷紙の束を私の前に差し出した。
 「あのー、暇なときでいいんで読んでもらえませんか。今まで誰も見せたことないんですけど、こんな機会めったにないと思ったんで。一ページ読んでつまらなかったら、もういいんで」
 「わかった、了解」
 「すいません。めんどくさいこと言って、じゃあ、おつかれさまでした」
 辻本君は何度も頭を下げながら去っていった。

 アパートに帰った後、コンビニで買った総菜をちゃぶ台に並べ、缶ビール片手に工藤あさみから手渡された同人誌を私は読みはじめた。本腰を入れて読み始めたが、案の定というか、小説になっているものは皆目見当たらず、あるのは病的と思うほどの『恋愛』のモチーフと、アマチュアに多い、「だからどうした」、「それで何が言いたい」といった内容の、わざわざ小説というものに化けさせて、箸にも棒にもかからない平穏な日常が描かれた、まさに「読み捨て」小説を乱造する人間の典型的な特徴を兼ね備えた作品だけだった。
 
 いったいこれに、どんなコメントをしろっていうんだ。
 
 苛立ちすら沸いた。でも私はあの居場所を失いたくなかった。たとえ感性が許せなくてもあの子たちは私を必要としてくれている。これをみすみす手放すことはできない。
 次行ったときは、彼らの喜ぶ顔が見たい。語るべきことのない駄作ばかりだが、徹底的にありもしないことを言って褒めてやる、てのはどうだろうか。おべっかじゃなく、真剣に才能に期待させるようなことを言えば、あの子たちはもっと私を神聖化するんじゃないか。
 あぁ、そう思うと、次が待ち遠しい。
 天井を見上げ、私はさらなる幸福の予感に体がうずくのを感じた。 
 去り際に渡された辻本くんの小説の束が、ふと目にとまった。分厚い印刷用紙に印字された文章はざっと見て原稿用紙200枚はあり、とてもじゃないが最後まで目は通せないなと思いながらも何の気なしに私はそれを読み始めた。
 さりげない情景描写の出だしに惹かれ、一ページ、二ページと読み、10ページ来たところで、私は気づかぬうちにねころんでいた姿勢からあぐらへとうつり、30ページきたところで正座へとうつっていた。ひたすら吸いこまれるように字面を追い続けると、外の雑音が消え、広大な世界で私と小説だけが対になって向き合っているような錯覚におちいった。獲りつかれたようにその小説世界に没入していくと、私はさらに1ページ、二ページと読み進め、二百枚すべて読み終わったころには、いつの間にか二時間以上たっていた。
 読み終わった時、漠然とした動揺があった。
 私は立ち上がって、頭が冷静になるまで、せわしなく居間を行ったり来たりした。
 何も考えられなくなった。
 今のはなんだったんだ、という不意打ちのような読後感だけがあった。
 頭が冷めてくると、冷静に今読んだ小説の全貌が脳裏に浮かび上がってきた。キャラ造形、構成力、リーダビリティ、ストーリーテリング、流麗な文体、すべてが完璧なまでにそろっており、文句ひとつつけようのない、完璧な小説だった。
 何かの間違いじゃないかと思い、もう一度それを読んだ。
 長らく家庭を顧みなかった父親が、臓器移植が必要な息子のために、脳死自殺をはかるという内容のヒューマンドラマだった。安っぽいうわべだけの感動になりそうな話を、過度に感傷的にもならず、適度に笑いがちりばめられた本作は、私が忌み嫌っていた安っぽいヒューマニズムとは程遠いなにかがあった。私は辻本という青年が、あのどこにでもいそうな純朴な若者がこれを書いてしまったその事実ににわかに受け入れがたいものがあり、
 おかしい。何かの間違いだ。こんな小説を、あの二十歳そこそこのガキが書けるわけがない。私の知らない何かの小説のプロットをそのまままる写しにした。そうに違いない。器用な奴ならできないこともない。
 となかば強引に解釈し、私の内部で発生した動揺を、猜疑心で覆い隠そうとしたのである。

 「あ、武藤さんだ」
 私を見るや、一人の女子生徒が声を上げた。「あさみちゃん、武藤さん、また来てくれたよ」
 「あ、武藤さん、おつかれさまでーす」
 工藤あさみの気の抜けた耳障りな声が届いた。彼女からのメールで今日も朗読会を開くということを知った私は、引き寄せられるように仕事帰りに桜の木の下にたちよった。
 「今日は、辻本君は来てないの?」と訊くと、「辻本先輩は呼んだんですけど、なんか就活らしいです」と彼女たちは答えた。それを訊いて、少しホッとしている自分がいた。彼の作品に対する動揺がまだ抜けきれず、作品の素直な感想を言える自信がなかった。
 「武藤さん、読んでくれました」工藤あさみが期待に胸躍るような表情で聞いてきたので、
 「あぁ、読んだよ」と私はそれだけ言って、一呼吸ほど間をつくり、
 「あれは最悪だ」と切り捨てるように言った。
 そのとたん、工藤あさみの顔が一瞬にして硬直し、やがて後ろにいた何人かの女子学生の表情もいっきに血の気が引いていくのが分かった。
 「あんなものは小説でもなんでもないね」
 ダメ押しするかのようにそう言うと、一転、緊張が張りつめ、その場にたっているのが辛くなるほどの重い空気がのしかかってきた。だが気に留めなった。昨夜の思いとは裏腹に、自分の感じたことを率直に言ってやりたい。そんな気分になっていた。
 「あの、どこらへんが、ダメだったんですか・・・」
 前回とは違う私の態度に動揺しているらしく、声を震わせながら、工藤あさみが恐ろしげな表情で訊ねてきた。
 「君らは本気で作家になる気はあるのかな」
 強い口調でそう言うと、女子学生たちは一瞬確信を突かれた表情をして、そのまま黙り込んだ。私はあえて意図的に沈黙をつくり、彼女らを圧迫した。
 「・・なる気はあります」
 口を開いたのは、工藤あさみだった。「・・・でも、やっぱりすぐに作家ってわけにもいかないじゃないですか。だから今は就職活動でもして、社会経験をつんで足場を固めてからでいいかないとなぁって、思ってるんです。それじゃあダメですか?」
 「ダメだ」
 私は冷たく言い放った。
 「いいかい。こんなこというのはあれだけど、作家になるってのはそんな甘っちょろいものじゃないんだよ。作家になる人間というのはね、物を書くことでしか自分を表現できない、書かなければ社会から脱線するような衝動を抱えた、そういう人種しかなれないんだよ。仕事と片手間で小説が書けると君たちは思ってるんでしょう。そんな器用なことができている時点で、たいした小説なんか書けやしないんだ」
 私がそう言うと、いよいよ場の空気が窒息しそうになるほど本格的に縮こまり始めた。女子生徒は全員、その場に立ち尽くし、茫然とした表情で私を見つめていた。
 「私を見てごらん。今まで一度もどこかに腰を落ち着けたことなんて一度もない。あなたたちから見れば、もうどうしようもない人間だ。真っ当な道はとっくの昔に踏み外してる。でもそこまでしては初めて物が書けるんだよ。君たちはさぞかし、いい大学を卒業して、まぁ、そこそこの企業に勤めて、結婚して、子供を生んで、きっと幸せだろう、でもそんな君たちの書いたものを私は読みたいとは思わない。真っ当なレールにのって常識というぬるま湯につかった人間の書くものなんてたかが知れているからね」
 私がそう早口でまくしたてると、女子学生たちは俯いた。私はそれに気を高じて、さらに語気を強めこう言った。
 「書かなければ死んでしまうような衝動が君たちにはあるか?」
 長い間があった。「あるものは手を上げてごらん」と私は訊ねた。
 誰も上げなかった。私は気をよくし、さらに
 「君らは小説で何を描きたいんだ」と問い詰めた。
 女子学生が黙りん込んでいるので、私は一人の生徒を指さした。「おい、そこの君」「私ですか」「そうだ、きみは小説で何を描きたいんだ?」
 「・・・・・・」女子学生は俯くだけだった。
 「誰か答えられる人は?」
 私がそう煽ると、工藤あさみが手を上げた。
 「・・・私は、読んでる人が幸せになるような、心温まる小説が書きたいです」
 「はあ、それは具体的にどういう小説なわけ?」
 「え・・・と、江国香織さんみたいな」
 「ダメだ」
 「どうしてですか!?」
 「誰かみたいになりたいと思っている時点でダメなんだよ。いいですか。小説というものは、人間の愚かさを描くんだよ。心温まる小説なんかダメだ。あらゆる名作の根底にあるのは人間の愚かなさなんだよ。君たちが書いているのは、どこがお気楽で、平凡で、毒にも薬にもならない代物ばっかりだろ。こんなものは選考じゃ最終候補には絶対届かないんだ・・・」
 私がそう言っている最中、一人の女子学生が泣き始めた。声を押し殺すように泣いて、周りの学生同士がかばい合うように、その生徒の肩をさすりはじめた。私が悪者になったかのような空気が充満したが、すぐに振り払い 「泣いたところでどうにもならない」と言って、続けた。
 「いいかい、もし君たちが本気で作家になりたいと思うのであれば、私の言うことを聞きなさい。これから一週間に一度、君たちの書いた小説を添削するから、かならず参加するんだ。いいね。私の言うことをきいてれば、まちがいなく賞はとれる」
 「急にそんな、無理なこと言わないで下さい」
 工藤あさみが怒りのこもった充血した目つきで私を睨みつけた。
 「無理なことだと思うならそれでいい。だが君たちだってこんなおままごとみたいなサークルでいつまでもくすぶっていたくはないだろ。誰も読まないような同人誌をつくって、それで満足かい。お互いに作品を褒め合って、小さな輪の中で安穏として、ほんとにそれでいいのか? 誰か仲間内ではなく別の人間の評価を知りたくて僕を歓迎したんだろ」
 女子学生たちは、黙り込み、ただじっと私を睨みつけるだけだった。
 私はこれ以上言っては、事態の悪化を招くだけだと思い、「少なくとも君たちには若い感性がある、その感性を磨けば、絶対にものになると私は確信している」
 と少しばかりおだてて、その場を去ることにしたのだった。

 それからの彼女たちの態度はあからさまだった。
 一週間後、桜の木の下に行くと、案の定待っている者は一人としておらず、私はそれでも彼女たちが来るのを期待して、「君たちには才能があると思っていました。残念です」と全員にメールを何度も一斉送信し、行方を見守った。
 桜の木の下で、何をするでもなく一人ぽつんとたたずむ私は、はたから見ればどう映るのだろう、と思った。休日に同僚と花見をする新入女子社員の視線が釘で刺されるように痛かった。
 拒絶されることは予想していたが、ここまでとは。それより私はいったい、どうしてあんなことを言ってしまったのだろうか。あの女子学生たちの小説が何らかの賞をとってほしいという思いはまぎれもない本音だ。しかし、根底にあるのは、果たし得なかった自分の願望を託しただけにすぎなかった。私は失われた自尊心をどんな形でもいいから、取り戻したい。ただその執念だけが、衝動的に自分を突き動かしていたのである。
 私はそれから何週間も、仕事帰りに桜の木の下に行き、彼女たちを待ち続けた。
 もうだめか、と半ば見切りをつけようとしたとき、やってきたのは意外にもあの女子学生だった。私が一番想定していなかった人物だったので、一瞬、たじろいだ。
 「もうメールしてこないでくれませんか」
 開口一番に出てきた工藤あさみの言葉がそれだった。
 「わざわざそれを言いに」と私が言うと、「ここでいくら待っても、たぶんみんな来ないと思いますよ」と彼女は答えた。
 「じゃあなんで君は来たの」
 私がそう訊くと、彼女は持っていたバックから束ねられた小説の用紙をとりだし、
 「今度の文芸界の賞までに間に合わせたいんです。ダメなところ、指摘してくれませんか」
 と気恥かしさを押し殺したような表情でいった。
 私は自分の主張が彼女に伝わったことを確信し、心が高鳴った。
 それから何度かワンツーマンで私と彼女は桜の木の下で落ち合うことになった。私は彼女の小説を添削し、アドバイスをした。何度かそれを繰り返すうちに、彼女から様子を聞いたのか、部員が一人、また一人と増えはじめ、しまいには始めの全員が私のもとに戻ってくるようになった。もちろん、全員が全員はじめから私の言うことを律儀にきくわけではなかった。なかには仲間に連れられてしぶしぶ来たものもおり、あからさまに私を拒絶する者もいた。だが私はそう言う人間に対しては特に、「君には光るものがある」といったたぐいの褒め言葉でおだてて、その気にさせるのだった。効果はまずまずだった。私はそうやって、一方では「才能がある」と彼女たちを煽り、もう他方では「今のままじゃ駄目だ」と現実に直面させ、飴と鞭、その両方を交互に使い分け、しだいに彼女たちの主体性を奪い、私の言うことはどんなことであっても正しいという観念を彼女たちの意識に浸透させていったのである。すると、ものの三週間ほどで、文芸サークルは私の意のままとなった。私はことあるごとに彼女たちにこう説き聞かせた。
 「いいかい。文学というのは、本来、人間の愚かさを描かなければならない。強欲、虚栄、差別、悪意、妬み、嫉み、人間の愚かさにはきりがないだろ。そこから目をそらしてはだめなんだ。その愚かな部分を虚飾なく救いとるのが文学なんだ。愛とか平和とかそんなもんはなしだ」
 私は彼らにこの文学観を教条した。それは長年、私小説を読みつづけて培われてきた私の厭世的な文学観だった。はじめは納得のいかない表情をしていた彼女たちであったが、私のしつこい啓蒙活動で、明るかった彼女たちの小説の作風がしだいに、だんだんと暗く、陰湿なものへと変貌していくのであった。私はその様子を眺めながら、自分の文学的エッセンスがこんな年端もいかないうぶな少女たちに浸透していくのを実感して、えもいわれぬ高揚感に満たされていた。それは今までの人生で体感したことない他人に影響を与えるという快感だった。
 

   

 それから私は毎週に一度、仕事帰りに中央公園により、彼女たちの小説を添削し始めた。彼女たちは順応だった。私の意見に心なしか反抗するような表情はするも、ほとんどの子たちが私の言うことを素直に聞いた。

 ところが、あるとき小説の添削でめずらしく一人の女子学生が反抗してきたので私は一瞬、面食らった。それはエッセイ風の小説で、愛犬の死にたちあった主人公が喪失感と悲しみに打ちひしがれるという内容の至極ありきたりな小説で、私はこの小説に対し、
 「愛犬が死んで悲しいなんて話はどこにでも転がってるから、そんなものを書いたって仕方がない。愛犬が死んでも、悲しくも何ともない。そんな自分が恐ろしいといった内容に変えなさい」と助言したのだった。すると、女子生徒は「それはできません」と大きく顔をゆがませ強く反発してきた。
 「無茶苦茶なこと言わないでください。なんでベスが死んだことを哀しんじゃいけないんですか!?」
 「いいかい。何度も言うようだけど、人間ってのは愚かでどうしようもない生き物なんだ。だからそういう部分を潔く描かなくてはならない。犬が死んで悲しい。そんな美しい感情は描いたところで、なんにもなりやしないだろ。犬が死んでも、悲しくない。そういうところが人間の恐ろしい部分でもあり、描くべき価値のある感情なんだ」

 「じゃあ、私のベスへの愛情はどうなるんですか。私はベスが死んで悲しいと率直に思ったんです。その感情に嘘をつけって言うんですか!?」女子生徒は涙目になって訴えてきた。
 その気迫に押され、私は彼女をうまく説得できず、それ以来、それがわだかまりとなってか、その女子生徒はサークルにたびたび遅刻するようになった。
 これをきっかけにして、サークル全体の士気が下がれば、今までの労力が水の泡だと思い、「僕の助言が聞けない人間は、見込みがないと思ってくれていい。そんな人には一刻も早くこのサークルを出て行ってもらいたい」とあえて高圧的な物言いをして、彼女たちを心理的に圧迫したのだった。効果はてきめんかのように思えた。しかし私のその独善的な態度に、長らく憤懣をため込んでいたのか、ある時、例の女子生徒がいつものごとく遅刻し、そのうえ私に対して何の謝りもなかったため、私が「これだから、ゆとり世代は・・・」とさりげなく嫌みを言うと、ため込んでいた彼女の憤懣がそこで一気に暴発し、「今の言い方は酷くないですか」「ゆとり教育がどうのって、全然関係ないと思います」「今まで我慢してきたけど、今のは許せません」「撤回してください」と勢い強く反発しはじめたのだった。私はその思いがけない反発に内心たじろいていた。
 「わかった。わかった。じゃあ撤回はするけど、社会に出たときに困るのは君だよ。だいたいゆとり世代ってのは、人に礼儀を欠いていても顧みない人が多いからね」と言って、彼女の怒りを鎮静化しようと試みしたが、さらに火に油をそそぐような形になり、彼女はさらに血相するどく「全然撤回してないじゃないですか」「それって、ただの偏見じゃないですか」「私のこと悪く言うのはいいけど、サークルのみんなのことを言うのは見過ごせません」と私に詰め寄り、
 「じゃあ、武藤さんは今何書かれてるんですか?」
と突然、聞いてきた。
 「えっ?」
 と私は一瞬、心臓が疼くのを感じた。
 「人の小説にばっかり文句いって自分はどうなんですか? 何か書いているのがあったら読ませてください」
 「いや、 僕の話は今、してないじゃないか」
 「はっきり言って、最終候補ってのも、十年前の話ですよね。今はどうなんですか。もう投稿するのやめたんですか?」
 「やめてはないよ」
 「結果は出てるんですか?」
 「いあ・・・」
 「今度、武藤さんの小説も持ってきてくれませんか」
 「みよちゃん、よしなよ」
 「武藤さんと話してると、論理的なのはわかりますけど、なんかすっごい疲れます。もう私帰ります」
 とふっきれたように言うと、帰り支度をし始めた。ほかの女子生徒はあっけにとられていた。工藤あさみもどちらの側につこうかと逡巡しているようだった。
 彼女の意見に他の女子生徒がもっていかれたらまずい、と焦った私は、
 「おい待て、待ちなさい。文芸界の締め切りまで、もう少しじゃないか。ぼくの言うことをしっかり訊いてれば必ず、必ず獲れるから、それはぜったい約束するから。君の小説をこうやって冷静に批評してくれる人間なんて、僕以外他に居ないだろ」と言って、引き留めた。
 「いますよ」彼女はあっけらかんとした表情で答えた。「長塚さんです。月に一回、サークルに遊びに来る、このサークルのОBです。こないだメールで連絡あって、今サイゼリアにいるから遊びに来ないかって、みんなにもメールは来てるはずだとおもうけど・・・」
 女子生徒が仲間を見渡した。全員心当たりがあるようだった。
 「あさみ先輩いきましょうよ」
 「・・・うん」

 工藤あさみは明らかにその長塚という男と私とで、迷っている様子だった。彼女は文芸サークルの部長だ。彼女の判断で部員全員の心持が変わってしまう。私はその事態を察して、あえて威圧的な態度に出ることにした。
 「わかった、そんなにこの僕が嫌で、その長塚って人がいいなら行きなさい。僕は止めないから。でもよく考えてみて。僕と、その人。いったいどちらのほうが小説を読み解ける? 小説で実績を残しているのはどっちだい? 考えてみたらすぐわかることじゃないか」
 私がそう言うと、「書いてない人に言われたくありません」と女子生徒は言い放ち去っていった。彼女についていくものは誰もいなかった。工藤あさみも私のところへ留まった。私は勝った、と思った。一人が抜けようと、痛くもかゆくもない。彼女たちの意思決定はすべてこの私の手にある。そう確信し、自らの統率手腕に厳然とした自信を覚えたのだった。

 自宅アパートに帰ると、全身に重しをのせたように疲れがどっと押し寄せてきて、私は居間にへたりこんだ。今日ほど、疲れた日はなかった。今まで積み上げてきたものが崩れる予感がした。あの女子学生が抜けたことで、サークルの統率力が下がらなければいいが。私はにわかに不穏なものを感じていた。
 母から留守電が入っており、父親が倒れたらしく、命に別状はないが、一週間入院しているとのことだった。命に別状はないということを訊いて、私はへたりこんだまま、ほっとため息をついた。
 父親が生きていることにほっとしたのではなく、父親が死んだ場合における、葬儀その他もろもろの雑事が、降りかかってこないことに安堵していた。私はもう二度と実家には帰らないつもりでいたので、父が倒れても、帰郷するつもりはサラサラなかった。それ以前に、私はもう恥知らずの放蕩息子で、すでに父から勘当を突き付けられていたので、今さら、どんな顔をして実家に帰ればいいのか、わからなかった。
 私は、ゆっくりと起き上がり、あぐらの姿勢で、どこを見るわけでもなく、手元のハイライトをふかした。
 夢を諦めるときは、たいてい長い助走のすえ、一度も飛躍することなく、気付いた時には忘れている、というのがほとんどである。一回きりの勝負で敗北し、きっぱりと諦めるということはまず少ない。ほとんどが世に出たいと願いながら埋もれたままずるずると年をとり、何かの折に、昔の自分が描いた夢や目標を目にして、「そんなことも言っていたか」という具合に、思い出す。当初の目的とは程遠い所にいるのを知りながらも、日常の義務がそれを覆い隠すのである。
 就職を間近にして、大学を中退した私は、逃げるように実家を飛び出した。その思い切った決断を支えたのは、「自分には何かある」という根拠のない自信だけであり、またその自信も、わずかな手ごたえで有頂天になることもあれば、誰かに少しでも否定されると、今にも脆く崩れてしまいそうで、心もとなかった。
 文学の道を求道したいという言い分で、家を飛び出したまではいいが、はたしてほんとうに心の芯からそう思っていたかどうかは非常にあやしいところがあった。退屈な人生、退屈な仕事に、日々追われる生活が嫌だという、子供のような理由を覆い隠すために、苦し紛れに文学というものを引き合いに出していただけだったのではないか。もしそうだとすると、文学を極めたいという私の壮大な願望は、自分の人生の決定を先送りしたいという一念から出た、ただの自己欺瞞だったことになる。
 「書かなければ死んでしまうような衝動が君たちにはあるか」
 女子学生たちに私はこう言ったのである。そんな衝動、どこを探しても私のなかにも見当たらない。
 これからどうなるのだろう。私はこれからどこに向かうのだろう。
 天井を見上げながらそう思った。
 翌日になって、私はその答えがおのずと向こうからやってくることを、思い知らされることになる。

 

 

 それはいつものように仕事帰りに中央公園にいったときのこと、さくらの木の下に集まる女子学生たちを眺めるといつもと違う違和感をおぼえた。一人だけ男が混じっていた。紺色のスーツを着た、私と同じ年ごろの男だった。女子学生たちはその男の背後で黙りこみ、悪いことをしたかのように俯いていたおり、男は腕組をして、せわしなく時計を確認しながら辺りを見渡していた。男の表情には遠目から見ても明らかに苛立ちが伺いしれた。
 その光景に不穏なものを感じたが、このまま背を向けて帰るわけにもいかず、おそるおそる彼らに近づくと、男は私を見るなり、「あんたが武藤さん?」と詰問するように訊いてきた。私はその「あんた」という物言いに、穏やかではないものを感じとり、「そうですけど・・・」と小さく返して、身構えた。
 男は足元から頭にかけて、値踏みするような眼つきで私を眺めると、
 「けっこう普通な人だな」とあからさまに挑発的な表情を見せつけてきた。
 「なんですか?」
 「みんな迷惑してるんだよ」
 「え?」
 「かなちゃんに全部訊いたよ。サークルのみんなを洗脳しようとしてるって」
 かなちゃんというのは、愛犬の小説で私と仲違いしたあの女子学生のことだった。
 「洗脳?」
 その大げさな単語に一瞬気が動転したが、動揺しているところを向こうに悟られてはいけないと思い、いたって平常心で訊き返した。
 「洗脳だろ。どう考えても。かなちゃんの繊細な感性を踏みにじって、どういうつもりなんだあんた」
 「ちょっと待ってくださいよ」
 「なに?」
 「私はあくまで、彼女たちのためを思って言っただけであって。あなたの言い方はちょっと一方的すぎる。誤解してる」
 「誤解じゃないよ。事実を言ってるんだ。このサークルはな、前はみんな、和気あいあいと楽しくやってたんだよ。あんたが来てから、おかしくなったんだよ」
 男はそう言うと、彼女らの賛同をもとめるように背後を振り返った。一人、私と決裂をしたあの女子学生(かなちゃん)が、私を強く睨んでいた。
 ほかの女子学生たちはじっと俯き加減で黙っているだけだった。
 その時てっきり私は、部員全員がすでにこの男に丸めこまれたとばかり思っていたので、彼女たちが俯いたまま男に加勢しない様子を見て、彼女たちも逡巡しているのだなと悟り、もしやこの先、この男とのやり合い次第では、晩回のチャンスもあるかもしれないと即座に嗅ぎとり、
 「ちょっと待ってください。第一、あなたはまず誰ですか。こちらが名乗ったのに、そちらが名乗らないのはおかしいでしょう」とあくまで紳士的に言いかえしたのであった。
 「俺は長塚っていうんだよ。会社員やってる。このサークルのОBだよ」
 男はそう言うと堂々と胸をはり、一歩もひるまない様子で私をけん制した。
 「なぁ、武藤さん、このサークルにはもう来ないでよ」
 「どうして?」
 「いや、だから、さっき言ったろ。みんな迷惑してんだよ。このサークルはな、あんたが来る前は、もっと穏やかで、こんな空気じゃなかったんだ。あんたがぶち壊したんだよ、このサークルの雰囲気を。この子たちの感性を」
 「感性ねぇ・・・」私は苦笑した。
 「なにがおかしいの?」
 「そりゃあなた、ぬくぬくと温室で育った感性でしょうが」
 「はぁ?」
 「だから。そんなものをいつまでも大切にしていたんじゃ、いつまでも作家にはなれないぞって、私は言っただけですよ。それがおかしいですか」
 「おかしいよ。彼女たちはそれを望んでないだろうが」
 「いいや、お互いの合意があってのことだ。そこにいる工藤さんに訊けばわかりますよ」
 「そうなのか、あさみちゃん」
 男は工藤あさみの方の振りかえった。
 今にも泣きだしそうな表情で、彼女はしどろもどろに言葉を発した。
 
 「・・・はい。そうです。私が最初に頼みこんで・・・。それは事実です。かなちゃんのことは酷いとは思うし、武藤さんの言うことは厳しいけど、でも、みんな的確なのは本当だし、長塚さんはちょっと言い過ぎというか・・・正直こんなことになると思ってなかったんで、もういいです、やめてください・・・」
 
 どちらかといえば私よりの意見で、一瞬しらけたような表情で、長塚は黙り込んだ。
 「だから言ったでしょう」と私はその隙を見て、鼻高く言って攻勢に転じた。
 「望んでないのは、あなただけだ」
 「どういう意味よそれ?」
 「だからあなたは、前のような内輪受けの雰囲気が、なごり惜しいんでしょう?」
 「はぁ?」
 「もうやめてください」
 「あさみちゃん、もういい」
 長塚が優しく言葉を投げかけると、それをきっかけに工藤あさみは堰を切ったように泣きはじめた。部員全員が彼女を介抱するようにやさしくなだめ始める。
 「こんな子たちに、辛い思いをさせて、あんたなんにも思わないの?」
 その情景を逆手にとって、長塚は声を荒げ、強引に私を悪者にしようというあざとい手段にでてきた。
 私はこの男の、骨の髄まで人を見下したような態度と、自分は正しいことをやっているかのような口調、彼女たちを前にいいところ見せてやろうとするそのヒロイックな魂胆に吐き気にも似た不快感を抱きはじめていた。どうにかしてこの男を言いくるめたい。そんな情念が心の奥底からたちのぼり、私を衝動的に突き動かした。
 「もういい。やめましょう。もうつかれた。あなたには話が通じない」
 「それはオレが言いたいよ」
 「じゃあ訊くが、あなたは小説で実績を残したことが一度でも、あるんですか?」
 「実績、そりゃ・・・ないよべつに」 
 「ないでしょう」
 「なんだ?」
 「なにもわかってないな、あなたは。会社員か知らないけど、小説で実績を残しているのはこのボクでしょう。このなかで一番作家に近いのは、あなたじゃない、この私なんですよ。私は彼女たちの小説に賞をとってほしい。ただそれだけの一心でやってる。だから時として厳しく言うときもあるし・・・でもそれは覚悟の上でやってるんだよ。こっちは本気でやってるんですよ。作家になるってのは、そういうことなんですよ。あなたみたいなずぶの素人に口出しされる筋合いはない」
 私は気迫を込めて、今まで生きてきてこんなに声を張ったことのない勢いで声を荒げ、淀みなく、彼に言葉をぶつけた。

 しか彼は、むしろ熱っぽく語る私をバカにするようなまなざしで見つめ、こう続けた。

 「もう今までのことは全部水に流すから、とにかくもう武藤さん。二度とここへは来ないでくれよ。なぁ」

 長塚のどこか憐れむような言い方が、私の心魂に深く突き刺さった。
 ここで何を言おうと、かえって事態を惨めなことになるだけだと悟った私は、やむなく男の言うとおりに従ってその場を退こうと背を向けたが、二、三歩歩いたところで、背中に突き刺さる軽蔑の視線が気にかかり、やはりここで帰ってしまっては、あまりにも無様だと思い、踵を返して、
 「お前らなんか一生作家にはなれない」
 と負け惜しみのような捨て台詞を言い放ったのである。すると女子学生たちの顔が一気に凍りつき、長塚の表情もぽかーんと口を開けたようなものとなり、その場に全員棒立ちになっていた。
 私はそのまま、逃げるようにその場から立ち去った。


 家に帰ったあと、玄関先で崩れ落ちた。
 すべてが無様でどうしようもなく、泣きたい気分だった。唇をかみしめると、あの男の顔、そして彼女たちの視線が脳裏によぎり、自尊心が二度と快癒しないほど、徹底的に打ちのめされていくのが分かった。私の人生における一大イベントはこうして情けなく終わりを告げたのである。今までの徒労はすべて元の木阿弥へと帰した。
 もう終った。なにもかも。
 ふいに、どこか諦めにも似たような気持ちが湧いてくると、
 私には所詮、こういう見苦しい去り際が一番性にあっているのかもしれないな、と思い、少しだけ心が楽になった。
 ところが、甘かったのである。このわずかな楽観に反して、事態はさらに悪い方向へと突き進もうとしていた。

 翌週になって、私は仕事を首になった。
 あるとき突然、事務室へと呼ばれ、店長にそれを宣告されたのである。訊くところによると、私への信頼を裏切られた反動なのか、工藤あさみが店長にするどい口調で「武藤さんと顔を会わせたくないので、私は辞めます」と直談判したらしく、サークルの部長でもある彼女が抜けるとなると必然的に、同じ文芸部の女の子たちも「あさみ先輩が辞めるんなら、私も辞めます」と同調しはじめ、事態は、私の思わしくない方向へと進んでいった。昼番の文芸部の女の子全員が、私がやめない限りバイトを来週中に辞める、という、なかばボイコットのようなかたちで店側に押し迫ったらしく、店長はそのいきさつを深刻そうな表情で私に告げた。私は、弁解するつもりで今までの経緯を包み隠さず話したが、「人間関係ならなおさら」という理由で、あっさりとその日で解雇となった。シフトを交代する際、夜番と昼番はかならず顔を合わせるので、私はこれからどんな顔をして彼女たちに会えばいいのかと内心気が気ではなかったのだが、このような形で彼女たちの方からけん制を食らい、複雑な思いだった。いずれにしろ、私は生活の糧を失い、また再び、あの、よる辺のない日々へと舞い戻ることになったのである。

 ちょうどその日は、長らく就職活動で、あれ以来会っていなかった辻本君とシフトに入っていたときで、奇しくも彼も郵便局に就職が決まって、バイトを辞めるという日だった。
 仕事帰り、辻本君と並んで帰り道を歩きながら、辞めることになった経緯を彼にすべて話すと、彼は「そうなんですか・・・」と言って、そのまま口をつぐんだ。
 「文芸部の子から、色々聞いてる?」
 「はい・・・」
と俯き加減で彼は答えた。「長塚さんと、そうとうヤリ合ったらしいですね」
 「あぁ、まぁ、そういうことなんだよ。ごめんね、君の顔をつぶしちゃって」
 「いえいえ・・・」
 辻元君は謙虚に首を振った。「なんか、いろいろすいませんでした」
 「え、なんで君が謝るの?」
 「いや、あの、ぼくがサークルを紹介しなかったら、こんなことにはならなかったじゃないですか」
 「いやいや、それは違うよ。君のせいじゃない。こうなったのはボクがその、勝手に自分で招いた結果だからね。自業自得ってやつだから、君が負い目を感じる必要は全然ないよ」
 「そうですかね・・・」
  辻本君と、私はそのまま、黙り込んだ。
 「あの・・・ちょっと聞きたいんだけど、長塚さんって人は、あの、どういう人なのかな」
 私がそう訊ねると、彼は打ち明けるような口調で言った。
 「う~ん、正直言うと、長塚さんも、けっこう嫌われてます・・・」
 やはりそうか、と私は思った。あの男とやり合ったとき、文芸サークルの女の子たちがサークルのOBである長塚に加勢しないところを見て、もしや、と思っていたが、やはりあの男も嫌われていたのか。
 「あの人、自分の話ばっかりするんですよ。それでみんなにウザがられて・・・」
  私はどこか心が楽になっていくのを感じた。「長塚さんも・・・」という辻本君の言い方にすでに私が含まれているのがわかり傷ついたが、同じく長塚という男も、私と同じつまはじき者だったのだなとわかると、少しだけ気持が解消された。
 「あのー・・・」
 辻本君が突然、伺うような顔色になった。
 「なに?」
 「あの、いや、前にボク、武藤さんに小説渡したじゃないですか、あれ結局どうなったのかなって・・・」
 「あー・・・あれ」
 私が一番、危惧していた質問だった。
 「・・・まぁ、ぼちぼちかな」 私がそう言うと、
 「ぼちぼちですかぁ・・・」
 と、辻本君は暗い表情で黙りこみ、私も彼の小説に関してプライドが邪魔して本音を言うことができず、そのまま話題は流れ、苦しい沈黙が私たちの間を覆った。
 「あの、武藤さんは、これからどうするんですか?」
 沈黙を破るようにして彼は言った。
 私はその質問に、一瞬、気の遠くなるような思いがした。「これから私はどうするのだろう?」それは私が、いま最も自分自身に問いたい質問だった。
 「実家に帰ろうかな・・・」
 苦し紛れに出した返答がそれだった。
 「そうですか・・・」
 彼は納得するように頷き、「それがいいと思います」と呟くように言った。
 「きみ、帰る方向こっちだっけ?」
 私は辻本君がいつもより私と同じ方角へついてきていることに気づいた。
 「いや、ほんとは帰る方向こっちじゃないんですけど、たまに、この先に河川敷があるんですけど、そこで石投げに行くんですよ。なんか、将来が不安になると、無性に投げたくなって・・・」
と彼は恥ずかしそうに答えた。
 私はそこで、同じように将来に不安を感じていたころの自分を思い出し、何か彼に言葉をかけてやらねばと思い、「わかるよ。俺も君ぐらいのときには将来が不安だったからね・・・」と何の当たり障りのない返答をしたが、これでは足りぬと思い、
 「とにかく君はまだ若いんだ。二十代だろ。君の人生はまだまだこれからだ。やる気さえあればね、人間なんだってできるんだから。だがその人生も、早めに手を打たないと虚しく過ぎていくだけで終わっちゃうんだ。時間は早いよ、ほんとに・・・僕ぐらいの歳になって後悔してももう遅いんだから・・・」と言って励ました。
 「はい・・・」
 「とにかく、小説は書き続けること、いいね、僕のためだと思って」
 「あぁ、はい・・・」
 私が熱っぽく喋りすぎて、彼が一歩退いているのが分かった。
 「じゃあこのへんで」
 彼は足を止め、自分が行く先を指差した。
 「あぁ」
 こういう去り際における別れ言葉というのはいったいなんなのだろうか、と私は考えた。「おつかれさまでしたー」では軽すぎるし、かといって大げさな別れ方をするほど距離は縮まってない。だからといって「じゃあ、また」というのは、もう二度と会うことはないことはお互い分かっているうえ、あまりにも嘘臭い。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 向こうも同じことを考えているのか、お互いが何か言うのを待つような嫌な沈黙が流れた。
 「それじゃあ・・・お元気で」
 声を発したのは彼の方だった。
  「あぁ。いつかまた」
 私は咄嗟にそう返した。 「いつかまた」 最も白々しい言葉だった。私は自分の語彙の貧困さを呪った。この場合における、適切な、その場にしっくりくる、別れ際の言葉というのは、いったいどういうものなのか。最後まで私の脳裏には浮かばなかった。後味の悪い思いを残しながら、青年の後姿を見送った後、私は家路についた。

 

 実家に帰ろうと思った。
 今回のことで、なにか節目のような、人生に一区切りついたような気がした。現実に、このまま往生悪く都心でとどまっていても私にとってなにもいいことはないだろうと直感的に感じてもいた。もうここらへんが潮時だろう、と心地よい諦めの気持ちが湧いてくると、実家の母親に電話をかけたくなった。母親は私の声を訊くと電話口で「お父さんのことはもうなんも心配いらんからなぁ」と涙声で言った。
 私は父親と顔を合わせなければならない現実に、向き合わなければならなかった。いったい何を言って、謝ればいいのだろう。やはり三四にもなって、実家に逃げ帰る人間というのは、一人の大人としてどうかしているんじゃないだろうか、という不安が頭をよぎった。出来の悪い息子が、いい歳にもなって、結婚もろくにせず、文学の道を極めたいという言い訳で、道を誤り、結局何者にもなれないまま実家に舞い戻ってくるという姿は、私が父親でも、目を覆いたくなるほど痛ましく、不憫としか思えなかった。
 帰郷する日、引っ越しの手配を済ませた私は、夜行バスのチケットを持って、駅の構内でなにか手みあげになるものを探そうと、構内にある惣菜屋を巡っていた。父が好きだった銘柄の焼酎を買い、実家に帰っても、座をもたせられるよう周到に工面した。苦し紛れの策だったが、これが私にできる最大のことだった。向こうに就職口はほとんどないだろうが、少なくとも家賃という呪縛からは解放される。非正規の仕事を続けながら、本を読み、誰にも相手にされずに一人で小説を書いたりするのも悪くないと思うと、実家に帰ったときの自分の明るい未来がほんのわずかに想像できるような気がした。
 駅の西口にくる夜行バスがくるまであと二時間以上あったので、私は時間を潰すためキオスクの本屋にでもよろうと駅の構内に戻った。何気なく、人通りの中を見渡すと、ふいにあの男の姿が目に飛び込んできた。私は足をとめた。人込みの中でもあの顔はすぐにわかった。心臓が波打った。円形の柱の後ろに隠れて、私はしばらく彼の行動を眺めた。
 男はスーツ姿のまま、構内におかれてある黄色の求人誌を手にとると、パラパラとめくりはじめていた。そして、ひとしきりそれを眺めたあと、かつての私がそうしたように、求人誌を丸くねじり、ゴミ箱の中に放り投げたのだった。私は、あ、と思った。男はそれからどこへ行くでもなく、ふらふらと人込みをかき分け、ホームレスが横たわる長いベンチに腰かけ、缶ビールを飲み始めた。その一連の様子を見ながら、胸の奥で憎しみが、何度が疼くのが分かり、男に近づこうと足を一歩動かすと、このまま話しかければ、何か取り返しのつかないことになるのではないかと嫌な予感がしたが、
 「長塚さん」 
 すでに私は衝動的に彼に声をかけていた。

 長塚の顔は血色を失ったように、真っ青になっていた。
 私が声をかけたときにはすでに、彼の眼はどこか泳いでおり、
 「あぁ・・・」
と気のない返事をするだけで、今にもその場から逃げ出したいような心持が、表情から伝わってきた。
 「奇遇ですね」
 「・・・・・」
 私は距離を縮めようと言ったのだが、その「奇遇ですね」という言い方に好戦的なものを感じたのか、長塚は何も答えず、不自然に辺りを見渡しながら、眼を合わそうとしなかった。
 「こないだは、すいませんでした」
 私が頭を少し下げると、向こうは伏し目がちに
 「・・・うん」
と掠れるような声で言って、あとは黙りこんだ。
 「おひとりですか?」
 「あぁああ…うん」
 否定してもしょうがない、という感じの曖昧な返答だった。
 「今、少し、お時間ありますか?」
 「えっ」
 「少し、今、話せますか?」
 「今?」
 「はい」
長塚は立ち上がり、
 「今か? 今じゃなきゃだめ? 今はごめん。これから10時のバスで帰んなきゃいけないし・・・」
と言って、わざとらしく時計を見始めた。
 「ちょっとでいいです。ちょっとだけ。こないだのことで、謝りたいと思って」
 私の執拗な低姿勢に追い払えないものを感じたのか、彼は煩わしいような表情をして辺りを見渡すと、「わかった」と呟くように言って、
 「じゃあとりあえず、向こうで話そう」と人込みのなかを歩き始めた。
 あからさまに私を早く追い払いたい。そんな気持ちが表れているような歩き方だった。なんならこのまま雑踏のなかを煙に巻きたいといった感じの早歩きで、私は必死で彼の背中を追いかけた。彼の言う「向こう」がいったいどこをさすのかは、わからなかったが、そんなことはどうでもよかった。この期を逃せば、あの屈辱を晴らすチャンスは二度とこないだろう。そう思うと、どこへでもこの男を執拗につけ回してやりたい。そんな気持ちが私を突き動かしていた。
 「俺もなぁ、あれだ、あんたとはあのままじゃだめだ、と思ってたんだよ」
 「えっ」
 私が肩を並んで歩こうとすると、長塚は歩く速度をさらに速め、私を引き離した。
 「とにかくまぁ、向こうで話そう」
 お互い一度も肩を並べることなく、一定の距離を保ちながら、駅の構内を抜け、タクシーが連なる停留所を横切り、駅から程離れた大通りに出て、しばらく人込みの中を歩き続けた。
 「向こう」というのがどこを指すのかわからなかったが、十五分たっても彼は一向に足を止めようとせず、私もしつこく後姿を追い続けた。駅から離れた車の往来がほとんどない二車線道路のバス通りの停留所についたときには、すでに二十分以上たっていた。お互い一言も会話を交わすことなく歩き続けていた。
 停留所の横に備え付けてある自動販売機の前に立つと、
 「なんか飲む?」
 と訊いてきたので、「じゃあコーヒーで」と私が答えると、
 「おごるよ」
 と販売機から缶ビールと缶コーヒーをとりだし、私に手渡した。
 停留所のベンチにお互い座り込むと、静けさだけが際立った。辺りに人はおらず、明かりをともした民家だけが際立っていうような場所だった。
 私は一口だけコーヒーを口に含んだ。
 「根負けすると思ったんだけど」
 口火を切ったのは、彼のほうだった。
 「えっ」
 「まさかこんなところまで来るとは思わなかったでしょ」
 「えぇ」
 やはり私を煙に巻こうとしていたのか。
 「あんた出身は?」
 「岡山です」
 「岡山かぁ・・・」
 関連した話題のキーワードを探しているのか、長塚はそのまま考え込むような表情で黙りこんだ。
 「岡山なら、こないだ、あれ、なでしこジャパンがきたでしょ」
 「えっ?」
 私はなんのことかわからなかった。
 「なでしこジャパン。あの、うちの妹、こないだ岡山にも応援に行ったって、言ってたよなんか、知らない?」
 「いえ・・・」
 「あ、そう」
 しらけたような表情をして、彼は黙りこんだ。
 「サッカ―お好きなんですか?」
 「いや俺はそんなに見ないんだけどね、うちの妹はね、もう大好き」
 「そうなんですか」
 「うん」
  一呼吸、間があった。
 「あんたサッカ―見ないの」
 「まぁ、たまには見ますけど、あんまり・・・」
 お互いサッカ―にさほど興味もないし、詳しくもないのに、なぜかサッカ―の話題が、それから五分ほど、私たちの間で続いた。続くと言っても、長塚が聞きかじりの知識を一方的に喋り、私のほうは、そうなんですか、と相槌をうつだけだった。だが、そうやっていくうちに、しだいにお互いにあった埋めがたい溝が、わずかに解消されていくような気がした。
 長塚はたしかによくしゃべる男だった。というより、一方的に喋ることによって自分を防御しているようにも感じ取れた。
 「ちょっと雨降ってきたな」
 ぽつぽつと小雨が降ってきた。私は傘を持ってないことを思い出した。
 「あんた時間大丈夫なの?」
 「ええ、私は」
 「はぁ~・・・」
 長塚は眼がしらを指圧するような仕草をして、とつとつと喋り始めた。
 「まぁ、こないだは、あのー、あれだ、まぁ、あのー、ああいうことがあったけども、俺も正直、ちょっと言い過ぎたかな、ぐらいには思ってんのよ。あんたも悪気があってああいうことをしたわけじゃないし・・・。だから、その・・・すこし大人げなかったなぁ、とは、思ってる。ただ、あの子らの気持を考えると、ねぇ、やっぱりあんたのしたことは、ひどいと思うんだ。それはわかるでしょ? 大人として」
 「えぇ、わかりますよ。私もそこはもう反省しています」
 「ああ、そう、だったらいいんだけど」
 長塚はそう言うと、胸ポケットの中からマイルドセブンを取り出し、
 「吸う?」
 と私にさし出した。
 「いや、私は・・・」
 「あそう・・・」
 彼はそのままマイルドセブンをベンチの上に置いた。
 長塚の態度がしだいに柔和なものに変わっていくのを私は感じていた。
 「武藤さん、結婚は?」
 「はい?」
 「結婚は」
 「いえ・・・まだ」
 「そうか」
 「されてるんですか」
 「う~ん、いや俺も、まだなのよ。チャンスはあったけど」
 「そうですか・・・」
 「いや、まぁ、お互い、大変な時期だよ、今は」
 「えぇ、ほんとに、そうですね」
 会話が止まった。私は焦っていた。私からさそっておいて、明らかに自分の方が口数の少ないことに、申し訳なさを感じていた。
 「長塚さんは、今、書かれているものあるんですか?」
 ひねり出して、口から出た質問がそれだった。
 「え?」
 長塚は一瞬、あっけにとられた表情で私を見た。
 「いや、小説。文芸サークルのOBなら、むかし書いていらしたんですよね」
 「うん、まぁね」
 「今も書かれてるんですか」
 「ううん、いや、今はもうね。若いころはバカみたいに書いてたけど」
 「どうして今は・・・」
 「ものにならなかったのでやめたのよ、それだけ」
 この質問で、わずかに彼の態度が、硬くなるのを感じた。自分と何の関係もない、もしくは自分の都合のいい部分については饒舌だが、自分についての核心に触れると、とたんに口数が少なくなる。そういう男らしい。
 「じゃあ武藤さんは、今なんか書いてるの?」
 「えっ」
 「いや、そっちはどうなの」
 「いや、私ももう、なんか、生きていくのに必死で、何年かは、もう・・・」
 私がそう答えると、長塚は深刻な表情でいったん黙りこみ、
 「じゃあ、あんたは今まで何してきたの?」
と言い放ったのだった。
 その言葉に、私は胸を突かれた。「今まで何をしてきたのか?」それは私が最も自分に問いたい質問だった。
 「何をしてきたかですか・・・」
 「うん」
 長塚の興味深そうな表情が、私を追い詰めた。

 「自分の道を歩きたかったんですかねぇ・・・」
 という言葉だけがでてきた。
 「はぁ~・・・」
 長塚が大きく、呆れてものも言えないといった感じのため息をした。
 「それでなんか見つかったの?」
 「え?」
 「それで、自分の道を選んでなんか見つかったわけ?」
 長塚は、訝しげなまなざしで私を見つめてきた。何も答えられなかった。
 「なんで自分に才能にもっと早く見切りをつけなかったの」
 実感のこもった言い方だった。
 私は才能なんてものがこの世にあるとは思いたくなかった。絶対的な才能などあるとは思いたくなかった。才能など、所詮は他人が勝手に決めた恣意的なものだ、と、自分を納得させてきた。だがそれをここで言ってもやぶさかなので、何も答えず、次の言葉を待った。
 「あんたぐらいの歳になると、誰もなんも言ってくれないっしょ」
 長塚のその問いかけに、私は「・・・えぇ」とだけ答えた。
 「どうしようもねぇな・・・」
 長塚がそう言い放ったとき、私は彼の詰問にこれ以上付き合っていたら、自尊心が持たないと思った。
 どうしてこの男は自分を高みに置きたがるのだろう。どうしてこの男は赤の他人の人生に対してここまで執拗に上から説教ができるのか。人生は一度きりだと言うのに、いきなり安全な道を選び、それを後生大事に守ってきただけのこの男に、私の人生についてとやかく言う資格があるだろうか。
 長塚が、人呼吸おくようなつもりで飲みかけの缶ビールをあおったとき、私はここぞといわんばかりに、
 「長塚さん、求人誌を見てませんでしたか」と訊ねた。

 「なに?」と言った。
 「求人誌を見てましたよね」
 「求人誌?」
 「いや、あの、私が声をかける前に、求人誌を見て、ゴミ箱に捨ててたでしょ?」
 「あぁあれ」
 「大丈夫ですか」
 「うん」
 長塚の眼は、気管に入ったことで、充血しうるんでいた。
 やはり何かある、と私は確信した。私はさらに
 「会社員って言ってましたよねぇ、たしか」
となかば勘で、その質問をしてみた。
 「あぁああ、うん」
 またあの微妙な返答だった。 
 それから彼は、目線を下におとしながら、ためらいがちに話し始めた。
 自分が会社員ではなく、今はうつ病を診断され、休職中だということ。求人誌を見ていたのは、他の職場に移っている事を想像すると、それだけで気持が楽になるということだった。私の執拗な追及をあらかじめ見越して、ここで洗いざらい言っておけば体裁が保てるだろうといった感じの告白のように私には思えた。その表れに、
 「まぁ、あんたには、俺の気持ちは伝わらないけど」とさりげなく自分を上におくような言い方で、彼は締めくくったのだった。
 「じゃあなんですか、あなたは自分を会社員と偽って、あの子たちに近づいたんですか」
 「そういうわけじゃない・・・・」
 「じゃあ、どういうわけなんですか」
 「まぁ、そう思うならどうぞ」
 開き直ったような返答をして、彼は黙りこんだ。
 「・・・信じられないな。私にあれだけのことを言っておきながら、自分のことは棚に上げて、お説教ですか。人に教えられる立場かって、覚えてますか。あなた、私にこう言ったんですよ」
 「あぁ・・・」
 「まさに、それはあなたじゃないか」
 「・・・・・」

 長塚は表情ひとつ変えず、私の言うことに静かに耳を傾けているだけだった。

 この男も、私と同じように、自分を大きく見せたい。いや、隠ぺいしたい。そんな小さな見栄から出たささいな嘘が、あとあとになって取り返しのつかないほど大きくなったのだろう、と私は思った。
 「あのなぁ、言っとくけど、俺の嘘と、あんたのついた嘘は、度合いが違う。あんたのついた嘘は、人を傷つける嘘だ」
 長塚は私の眼を見ずに、ただ一点、真向かいの道路を眺めながら言った。
 「じゃあ、あなたの嘘はどういう嘘なんですか」
 私がそう返すと、彼はまた黙りこんだ。

 なんてことはない。この男は、私と同じだったのだ。
 誰からも必要とされていない三十過ぎのいい歳をした大人が、大学の小さなサークルを我が物だといわんばかりに主張しあっていたのだ。そう考えてみると、夢破れたもの同士が、前途ある女子学生たちの前で、小さなプライドを張りあいながら、お互いを軽蔑して、罵り合っていたあの姿は、今思い出してみると、背筋が寒くなる光景だと私は思った。
 
 「もうけっこうです」
 そう言って、立ち上がり、荷物を持った。
 「はぁ?」
 「長塚さん、言っときますけど、私はね、往生際が悪いんですよ。こう見えて。やられたものは、しっかりとお返ししますよ」
 「なに言ってんの急に?」
 私は何も答えず、訝しげな顔をする長塚を無視して、雨の中を悠然と歩き始めた。
 「おい、雨ふってんぞ」
 後ろから彼の声が聞こえたが、振り向かなかった。このまま唐突に意味深なことを言って、去っていったらこの男はどんな反応をするだろう、と思った。
 「おい、待てっつの」
 駆け足で、近寄ってくるのが分かった。
 「おい待てって!」
 強引に肩を掴まれた。
 「何考えてる」
 「え?」
 「さっき言ったこと」
 長塚の顔に若干の怯えを感じ取った私は、この勢いに乗じて言いたてた。
 「あなたが私にやったことと同じようにするだけですよ。サークルの女の子たちの前で、自分のことを、正直にね、話せますか、どうせできないでしょあなたには」
 ほんの少し脅すだけのつもりだった。
 「何するつもりだおい」
 長塚の顔が膨張するようにむくれていくのが分かった。「もうあの子らに迷惑かけるんじゃねぇよ!」
 「あの子たちって、あなた馴れ馴れしく、言いますけどねえ、長塚さん、はっきり言って、嫌われてるんだよ、あなたは。ウザがられてるんですよ。みんなに。どうして今まで気づかなかったんだ。噂してますよ。自分のことばっかり喋る人だって・・・」
 私が舌鋒鋭くそう言うと、長塚の表情が一瞬、硬直した。
 「なに言ってんだ?」
 「とにかく、話は終わりましたから・・・」
 私が再び彼に背を向け歩きだすと、
 「おい、ちょっと待て、おい」
 と肩をつかまれたので、私は手で払いのけた。
 「おい」
 すると両肩と、二の腕をつかまれ、強引に彼の方へ向きかえるようなかたちとなり、私はそれを突っぱねようと、長塚の身体をはげしく両手で突き飛ばした。
 雨で水気を含んだ地面が、彼の足をとった。
 長塚は仰向けに倒れると、地面に頭をぶつけ、「あいたっ」という小さな叫び声を上げて、一瞬、動かなくなった。
 「あっ」私は咄嗟に彼の方に近寄った。「大丈夫ですか」
 「・・・あいたたたたた・・・・頭打った」
 「大丈夫ですか」
 「・・おい・・・・・・・」
 彼はあからさまにこっちに非があるかのような眼差しで私を睨んだ。
 「あ、血ぃ出てる」
 「えっ」
 長塚は後頭部を何度か手でさすり、その手を私にかざした。
 「ほら見て」
 たしかに出ていた。指先に血痕がわずかに付着していた。
 「おい、後ろちょっと見てくれ」
 私は言われるがまま、膝を落として、彼の後頭部を確認した。
 「どうなってんの?」
 長塚の不安げな声が私に届いた。
 「大丈夫、たいしたことない」
 「ほんとかよ」
 「いや、たいした怪我じゃない」と言って、なんとかうまくその場を収めようようとした。実際、たいした怪我じゃなかった。
 「いや、大した怪我だろこれ」
 長塚は疑うような表情で、また再び血痕のついた手を私の眼の目にかざした。
 「ほら見ろ」
 「いや、さっき見ましたよ」
 「もういいよ」
 長塚は吹っ切れたれたように立ち上がり、私から一歩距離をおくと、後頭部をハンカチで押さえながら、しばらく何かを考えるような表情をして、片方の手で携帯をポケットから取り出した。
 その行動の意味が私にはつかめなかった。
 「あんた言っとくけど、これ傷害だからな」
 長塚の言い放ったその言葉に、私は一瞬、硬直した。
 「なんですか?」
 もう一度、確認をしようと、そう訊くと、
 長塚は、携帯を耳に当て、私の質問を遮るかのように、
 「今、警察に電話してる」
 とだけ言い放ち、
 その瞬間、喉元に強烈な悪寒が昇ってくるのを感じた。
 「いや、ちょっと待ってくださいよ。何言ってるんですか。自分で勝手にこけたんじゃないか。最初に、あなたがやってきたんでしょう・・・」
 「押したのはそっちだろ」
 「いや、だからって、いくらなんでも警察って、大げさでしょ。大けがしてるわけじゃないんだし・・・」
 「頭怪我してんだよこっちは」
 「いや、怪我って、べつにたいした怪我じゃないでしょうが」
 「血が出てんだよ」
 「いや、ちょっと待ってくださいよ・・・」
 私が詰め寄ると、彼は身体を傾け、私のことなど意に介さないような仕草で、
 「あんたがサークルの女の子にストーカーしてたってのも言ってやるからな」
と静かに言い放った。
 私はそのとき、やっと自分の置かれている状況の深刻さが理解できた。体全身の毛穴から嫌な汗が放出するのが分かると、一気に心臓が、不規則に波打ち始めた。
 「いやいや、ちょっと待ってくださいよ。ストーカーって、そんなこと、いつ私がしたんですか。言いがかりにも程があるよ。・・・どこにそんなあれが・・・」
 「証拠ならあるよ。メールが残ってる。あんたが送ったメールが」
 サークルの女子学生たちから待ちぼうけを食らった際、彼女たちに一斉送信で何度もメールを送ったことを私は思い出した。
 「武藤さん、あなた酔ってますよ。向こうでちょっと頭冷やした方がいい。行きましょう」
 なんとかしてこの状況を打破しなければならないと思った。焦りを見せるほど、向こうの気をのらせることになる。ここは冷静に。焦るな。落ち着け。これは脅しだ。単に私をけん制したいが言っているだけだ。
 「本気じゃないでしょう?」
 「あ、もしもし、すいません、あのねー」
 私は咄嗟に、携帯を奪い取った。
 後ず去りして、長塚から距離をとった。
 「あんたどうかしてるよ」
 「返せ、携帯」
 長塚の目つきが変わった。
 「ちょっと頭冷やした方がいい」
 「わかった。いいから返せ」
 「また電話するでしょう」
 「しない。しないから、とりあえず返せ」
 長塚は鋭い剣幕で私ににじり寄ると、私の腕を強くつかんだ。
 私は、握りしめた携帯を、このまま渡すわけにはいかなかった。
 「返せよ」
 つかまれた腕を、私は腹のあたりに隠そうと引っ込めようとした。長塚の身体が私に密着して、携帯を握りしめたまま、そのまま、もみくちゃになった。
 「あっ」
 携帯が私の手から離れ、道路わきの排水溝のなかに落ちていった。
 冷や汗がでた。長塚は私をキッと睨みつけ、排水溝の中を立ったまま覗き込んだ。
 「あー、やったな」
 静かに、腹の底から、出るような声だった。私は返すべき言葉が出ず、数歩、後ずさりして、彼から距離をとった
 「拾えよ」
 「えっ」
 「お前が、落としたんだろ。責任もって拾えよ」
 怒りを押し殺すような長塚の眼を見て、私はしぶしぶ彼の言う通りに従った。
 排水溝の前に屈み、鉄製の蓋を持ち上げ、空洞を覗いた。闇だった。私はそこに手を入れて、なかをまさぐった。水気をふくんだ苔のようなものが手に触れ、私は思わず手をひっこめた。
 「なにやってんだよ」
 背後に立っていた長塚に、ケツを蹴られた。
 そのとき、私の内部でなにかが切れた。
 蓋を片手に持ったまま、私は立ち上がった。
 「そんなに言うなら、自分で探しなさいよ」
 「あぁ!?」
 「私には関係ない」
 「・・・・・」
 長塚は絶句していた。怒りを表現する言葉がでてこないという感じだった。
 彼に背を向け、何事もなかったかのように歩き始めると、
 「おい、ちょっと待て」
 また肩をつかまれた。今までと違った、嫌な力の入りようだった。
 その手を払いのけようと力まかせで彼の方へ振りかえると、
 視界が消えた。
 石が、頬にダイレクトにぶつかったような衝撃がはしり、
 拳の骨が直接、やわらかい口のなかに食い込んできて、舌をかんだ。
 口のなかに苦いものが広がって、道端にそれを吐くと、雨でぬかるんだ地面に、血のふきだまりができた。
 前かがみになって地面に手をつくと、頭がきしみ、視界がぼやけた。
 「ふざけんなよ」
 顔を上げると、長塚が五メールほど先に立っていのがやっと分かった。
 殴られた衝撃でここまで後退していたのだった。
 私は、しばらくの間、そのままの姿勢でいた。殴られたのだ。明瞭となる意識の中で、はたして人生で殴られたのは何年ぶりだろう、と思った。理不尽だ。どうして私が殴られなければいけないのか。
 そう思うと、いままで必死におさえてきた何かが徐々に、身体を侵食していくのを感じた。
 私はゆっくりと立ち上がり、歩き始めた。長塚の方へと近づき、道端に落ちていた排水溝の鉄の蓋を拾い上げた。私の中で何かが壊れた。
 自分を抑えられなかった。

 「親切心でこっちは付き合ってやったのに・・・」
 彼はそう言いながら屈んだ姿勢のまま、排水溝の空洞に手を突っ込み、なかの携帯をとろうとしていた。
 「あ、あった」
 携帯をとりだすと、壊れていないかどうかを確認し始め、
 彼は再び、携帯を耳にあて、警察にかけなおした。
 「あ、もしもし・・・」

 向こうがこちらを振り返った。
 あっけにとられた表情が目に焼きつくのとほぼ同時だった。

 私は排水溝の蓋を、彼の後頭部に、ぶつけた。

 「いっ」と叫び声を挙げて、仰向けに倒れ込んだ。
 骨にあたった、といった感じだった。

 手に振動を感じた。
 一瞬だった。
 
 全身の力が抜けていくと、腕に痛みを感じた。

 排水溝の蓋から手を離したときには、
 長塚は道路わきの溝に頭をつっこんだまま、動かなくなった。

 生きているか死んでいるかもわからなかった。

 私は立ち上がり、ゆらゆらとした足どりでベンチのほうに戻った。
 しばらくそこで身体を落ちつかせようと思った。
 マイルドセブンがベンチの上におかれたままになっていた。
 私は腰をおろし、どこ見るわけでもなく、それを吸いはじめた。
 頭がぼんやりするほど、何年かぶりの、格別の味だった。
 静かだった。
 草木が揺れうごく音も、鳥のさえずりも聞こえなかった。

 終わった、と思った。
 だが後悔はなかった。不思議と、やり切ったような、清々した気分だった。
 身体をベンチにもたれかけ、大きく息を吸い、息をととのえると、
 激しく脈打つ、自分の心臓の鼓動がゆっくりと落ち着いていき、しだいに心地よく、ことの深刻さが呑み込めてきた。
 時計を確認すると、10時過ぎていた。この時間帯は。
 そう思った時には手遅れだった。
 長塚をのせるはずだったバスが、暗闇の道をライトで照らしながらこちらへとやってくるのが見えた。
 タバコの火をベンチにこすりつけ、私は立ち上がった。
 もう夜行バスは行ってしまったのだろう。今更引き返すわけにはいかない。
 このまま、まっすぐこの道を歩いていこうと、私は歩き始めた。
 ことが収まるまで、しばらく歩き続けよう、と思った。
 何メートルか歩いたところで、バスの乗客の騒ぎ声がうしろで聞こえ始めたが、振り返らなかった。何時間たったのかもわからないほど道なりに歩くと、緩い勾配の坂をいつのまにか上っており、そこを上り続けると、橋のたもとが見えてきた。
 よし、とりあえず、あそこまで行って、これからどうするか考えよう、と思った。
 木々の隙間から朝陽が見えてきた。眩しかった。
 不思議だが、人生が開けてきたような気分だった。
 太陽の日差しが、全身を温かく包みこんだ。


 
 晴れたのを確認すると、青年は朝から家をひっそりと抜け出して家から離れた河川敷に自転車でたどりついた。
 土手の石階段を下りて、雨でしめった砂利の上を踏みしめると、慣れた足取りで雑木林の生い茂った南の方へと進んだ。
 青々と茂った下生えを足でかき分けながら、まったく手入れされていない林のなかを見つけて石崖に腰に下ろして前方を眺めると目の前にはおだやかな水流が流れていた。
 去年の台風で痛々しい爪痕をいくつか残した大きな大木が、その勢いに負けじと水流のなかにななめに屹立していたので、
 よしあれに向かって投げようと、青年は地面のいくらかの石を眺め、なるべく平べったいものを探し手に取った。
 青年の投げた石は、二回ほど、水面をはねて、川面に沈んだ。もう一度石を探した。
 投げ方をアンダースローへと変え、低い姿勢のまま、水面に向かって石を投げた。
 石は、朝陽できらきらと輝いた水面に美しい波紋をつくって、5回ほど、跳ねた。
 ここらへんでやめとくか、と一番のったところで切り上げようと青年は思い、川に背を向けた。
 帰り際、
 やる気さえあればね、人間なんだってできるんだから。
という言葉を思い出し、
 そうだ、やる気さえあれば、なんだってできる、と自分に何度もそう言い聞かせた。
 だがその人生も、早めに手を打たないと虚しく過ぎていくだけで終わっちゃうんだ。
 最後の言葉はどういうことだろう、と思ったとき、
 ふと顔を挙見上げると、眼に入ってきた光景に、あ、と息をのんだ。
 
 それはちょうど、遠くの鉄橋の上から、男が一人、身を投げているところだった。

 

 

                            終わり。