私の暗い読書遍歴 高校から20代の青年期~現在に至るまで

 

 最近、本ばかり読んでいる。
 起きて読んで、寝て、また本を読んで、また寝て起きて、みたいな生活がここ何ヶ月ずーっと続いている。うつぎみでも本は読まなきゃいけないのである。金閣寺から、星の王子様、限りなく透明に近いブルー、名作小説のたぐいと、偉人の自伝とか、もう浴びるようにかたっぱしから読んで本だらけの生活で、もう本棚はぱんぱんで、部屋は本で溢れかえってるし、もう圧死されそうである。
 フリーター時代は本読んでたら、いちいち親に怒られてきたが、昔より良くなったのは本を買っても、親から怒られなくなったということ。

 最近は、これ仕事だからね!で向こうを押し黙らせられるようになったのだ。これはホントに解放される思いに尽きる。働けというプレッシャーからの解放だ。

 

 そもそもなぜ僕は本を読み始めたのか。と考えてみた。

 17ぐらいのときから漫画家を目指して挫折。それ以降。映画監督をめざそうかなって思ったけど、願書の書き方がわからずこれも挫折。いよいよ、うんざりして、まっとうな道を歩もうと歯科大学にはいったりしたけど、それも歯に興味がわかず、挫折。

 ぼくは、いろんなことに挫折してきた。
 しかし、その間、本だけはずーっと読んでいた。すごい暗いもんばっかり。もう。明るいもんなんか読んでられなかった。

 最初にハマったのは中島義道の本だった。

 あれは当時、高校生ぐらいの時に読んだんだけけど、あれはすごいインパクトだった。

 最初読んだのが「私の嫌いな10の人々」という本だったかな。

 

私の嫌いな10の人びと(新潮文庫)

私の嫌いな10の人びと(新潮文庫)

 

 

 とにかくこの本は、目次からしてすごかった。笑顔の絶えない人が嫌い・・・とか、いつも前向きに生きてる人が嫌い・・・とか書いてあって、読んだとき、なんか常識がぶっ飛んだ。このおっさんは自分の救世主だ、と直感的に思った。

 あれを高校時代に読んで以降、世間的なものに乗り切れない感性が尖ってしまい、大学の飲み会とかサークルとかに参加できなくなってしまった。もともと参加できないからああいう本にいくのか・・・どっちかはわかんないけど、もうあれは「こっち側」への招待状みたいな本というかさ。とにかくあれを読んで何かが開眼して、そこから中島義道の本を読みはじめて、どんどんどん暗くなっていき、さあ次なに読もうって思ったときに、岸田秀に手ぇだしはじめて、岸田秀は更に一層暗いので一時期どハマリした。

 

ものぐさ精神分析 岸田秀コレクション

ものぐさ精神分析 岸田秀コレクション

 

 

 なんか虚無だなぁ。みたいな時期が、若い頃は特に、みんなあると思うんだ。若い頃は。そういうときに、岸田秀は「世の中は虚無だ」「なぜならすべて幻想だからだ」みたいなズバッとしたもの言いで、あざやかに詰めてくるわけよ。20代の。なにもものを知らない自分は、その断定口調に完全にかぶれてしまった。虚無なんだ。と痛い表情でつぶやいていた。ものぐさ精神分析を読んで、それ以来、岸田秀の全集ばかり貪るように読みあさっていた。

 なんか20代の前半は、人生があまりにも暗いので、自分と似たような親和性の高い本ばかり読んでいた記憶がある。

 とくに自分のなかで親和性が高かったのが、私小説と言われるジャンルだった。

 

塩壷の匙 (新潮文庫)

塩壷の匙 (新潮文庫)

 

 


 車谷長吉とかホントに今読んでもいいよ。「塩壺の匙」とかね。

 あんま有名じゃないけど。私小説だから車谷長吉が主人公なんですけど、作家志望なんだよ、この人。で、全然小説がものにならなくて、30歳になって実家に帰ってくるって話でさ。そしたら母親から「あんた小説家になって大成するかと思ったけど全然ダメだったじゃないの、この甲斐性なし」とか言われてさ、もうなにも言い返せずショボーンって・・・そういう内容なんだけど、なんかその光景がさ、親の期待に答えられなかった自分の人生とか、自分のクリエイティブな仕事がしたい願望とかと重なってさ。とてもじゃないが、他人事とは思えなかった。
 そんで小説のなかで「有名になりたいなぁ」とか「無名で死ぬのはイヤだなぁ」って怨念のようになげいてるような小説で、いや直接的には言わないんだけど、エピソードでそれを抒情的に訴えかけてくる内容で、あれは当時の自分の心境と恐ろしくフィットして、いま読んでも戦慄するんだよ。

 

 

緋色の記憶 (文春文庫)

緋色の記憶 (文春文庫)

 

 

 小説では、トマスHクックも好きですね。あの誘うような文体ね。一行読んだらまた一行、また一行と、読まされてしまう。あの筆力がすごい。

 べつにドカンとインパクトあるシーンがあるわけじゃないんです。

 小さな事実を積み重ねながら静かに誘って引き込まれていく感じ。

 かならず読み返して小説を書くときはあの文体の呼吸を真似しようとがんばろうと努めていた。小説においてのお師匠さんのような存在です。

 でも最近は小説も書かなくなって・・・レビューとかにかたよりはじめてるんだけど、レビューで役に立ったなっていう本は、やっぱりなにを差しおいてもナンシー関だと思うんですよ。

 

耳のこり

耳のこり

 

 

 批評とかレビューって「こんなことに気づいたよ」とか、われさきに「みんなが感じてるモヤモヤこんな言い方で表したよ」っていう能力の競い合いだと思うんですけど、ナンシー関はその勝負事においての一等格の、本物の業師だと思います。ナンシー関を読めば、自分の言語表現に対する能力がちょっとだけ飛躍するんだ。いや。ほんと。言語感覚がかなり磨かれると思いますね。

 うつっちゃうんだよね。ナンシー語が。ナンシー関みたいな考え方が。

 批評とかレビューで強くなりたいって人は読んでおいて損はない。損はないどころか得することばっかりだよ。
 
 なんでこんな話したかっていうと紹介したい本まだまだほかにもたくさんある。

 ブログ外の仕事が増えて、更新する時間がとれないし、どうしても簡単になっちゃうんだけど、好きな本の読書遍歴って一度書いてみたかったんだ。